家系(血縁)について思うこと | 松林 秀彦 (生殖医療専門医)のブログ

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生殖医療に関する正しい知識を提供します。主に英語の論文をわかりやすく日本語で紹介します。

毎月1日は、雑感の日です。今回は私の生い立ちをご紹介致します。

 私は長野県松本市の信州大学病院で生まれました。両親とも松本の出身です。ただ松本は生まれただけで、育ったのは千葉県茂原市です。茂原市は、小倉優子さんの出身地でもあり「こりん星」とも呼ばれています。小さい頃は、夏休みや冬休みになると、松本の祖父母の家に長期滞在していました。おじいちゃん子でした。祖父は国語と歴史が好きで、よく本を読んでいました。本棚には歴史の本が沢山あったのを覚えています。祖父は法学部卒でしたし、理系一辺倒の私とは正反対でした。ある時期、家系図を調べると言って、古文書ばかり見ていたのを覚えています。その家系図がどうなったのか、完成したのか、定かではありませんでした。ただ、中学生の時に「秀彦には医師になって欲しい」と言われました。先祖を10代ほどさかのぼると、それまではずっと医師の家系だったようです。その後は医療とは無縁で、父も祖父も医療とは全く関係のない仕事でした。祖父の言葉はひとつのきっかけでしたが、そのあたりから医師を志すようになったと思います。

 家系図のことはしばらく記憶の外に飛んでいたのですが、つい最近その家系図を父から受け取り、見てみると驚きの事実がありました。家系図は10代ほど前までさかのぼっていましたが、A4の紙に全てが収まる小さな家系図でした。父母も祖父母も兄弟姉妹が少ないため、私にとっての「いとこ」もわずか1家族しかいませんでした。子供の頃はお年玉を貰える人数が少なくて、「いとこ」が多い友人の話を羨ましく聞いていたものです。家系図を見ると、ほとんどの家族で子供は1人ずつでした。しかも、何度も血縁が途切れており、養子養女の文字がA4の至る所に見られました。子どもが増えたのは、私と「いとこ」の兄弟姉妹からで、両親の世代までは、妊娠しない家系でした。ただ、単発的に子どもが複数いるところもあり、その後の家族の人数は多くなっていました。日本人は血縁にこだわる人種だと言われますが、妊娠治療が行われなかった時代では、このような方法で血縁を守っていたのだということがわかります。多分、私の家系だけに限ったことではなく、全ての家系で似たようなことがあったのではないかと推察します。細々とつないでいた家系に新しい血が何度も入り、細々状態から脱却する、そしてまた細々となる、このような繰り返しだったのではないかと思います。

 私が家系図を見て思ったことは、どの家系でも、いつでも子どもができにくくなる可能性を秘めているということです。逆に、子どものできにくい家系だったとしても、いずれ妊娠しやすい家系になります。そうやって家系(血縁)が繋がってきたのだと思います。私がこのような家系に生まれ、現在の仕事に就いたのも、何かの縁(必然?)なのかもしれません。

丁度1年前の記事2013.2.1「私が産婦人科を選んだ理由」も併せてご覧頂ければ幸いです。