こんにちは、ともすけです。

 

夏目漱石の『草枕』。

 

 

読むのは何度目かもうわかりませんが、この小説はまあ出来事が起こらない小説と言われて有名です。出来事が起こらないというのがどういうことかよくわかりませんが、主人公の画家が架空の街に旅をする。読んでいると夢か現かよくわからない気分になってきます。

 

 

画家は「非現実」を追求しようとしています。非現実というのはこの言葉だけで想像してみてもいいと思いますが、時代的にはこの時代日本で流行った自然主義文学、つまりリアリズムとの対比で考えてみるとよいのかなと思います。

 

 

この小説では俳句や日本画、漢文の素養など江戸期に教養とされていたものが読者に求められる部分があると思います。古典の教養が必要、そんな感じでしょうか。明治になり西洋の小説を日本が取り入れるようになると言文一致の運動が起こり文体の革命が起こりました。二葉亭から始まり田山花袋、島崎藤村で完成したと言われますが、この花袋、藤村の『蒲団』、『破戒』とほぼ同時期に『草枕』は書かれています。

 

 

だから漱石はこの時点では文壇のアウトローだったわけですね。他の作家たちからどう思われていたかは調べてないのでよくわかりませんが作風が全然違います。漱石は自然主義文学というカテゴリーに入るものは『道草』しか書いていないようです。国民的作家にはいつなったのか? やはり『草枕』の前年の『坊ちゃん』が朝日新聞に載ったというのが大きいのかも。

 

 

 

 

 

『坊ちゃん』は江戸っ子で短気なきかん坊だと言われますが、徳川幕府が倒れた後の新興の東京人として描かれています。対する清が旧幕の成れの果てですね。ここらへんはその時代に生きていた人びとにとってはリアルなものだったと思います。坊ちゃんは四国に赴任しますがそこでこいつら田舎者だ、みたいにいいますけど坊ちゃんも別に武士とか貴族だったわけではありません。どんな気で言っていたのか・・・それは興味ありますね。

 

 

話はずれましたが『草枕』ですがこの小説はいま現在僕らが読んでいる小説の文章とは違うもので書かれています。といっても言文一致の完成期の作品なので古典文学を読むような困難さがあるわけではありません。ただ素養が必要とされるというか、まあそんな堅苦しい言い方をする必要はないかもしれません。ただ使われている言葉が江戸以前の言葉を受け継いでいるのでその言葉から表象されるものが自ずと違ってくるというような感じです。自然主義文学が隆盛を極めて僕がなんとなく残念だったなと思うのは使われる言葉にリアリティが求められるために言葉としてシンプルな内容の薄いものが使われるようになったというのがあると思います。

 

 

これはこれで西洋文学を翻訳するときに役立ったとは思うのですが、『草枕』のような小説、または『源氏物語』などの古典文学を読めばわかるように落っことしてきたものも多いと思います。といってももう古典に帰れみたいな、美術におけるロマネスクや新古典みたいなことは起こらないと思いますが。

 

 

『草枕』を読んでいると、なにか見えそうで見えない、あれなんだろう?言葉が言葉として返ってくるみたいな感覚があります。イメージの仕方がちょっと自然主義文学とは違います。それがなぜなのかは僕もわからないのですが漱石は実験的に作品を描く作家であったことでも知られていますのでこの『草枕』でもなにかやってやろうという気持ちがあったのでしょう。ここらへんは講談社文庫の柄谷行人の解説?なんか読むとわかるような気になることができます。僕は新潮文庫で読んでますけど。

 

 

まあ「非現実」です。この『草枕』には非現実がある。読んでみて面白くなかったという可能性を持つ小説でもあると思いますが草枕とあるようにまあ小説世界を旅してみると結構楽しいかもしれません。しかしこの画家はいったい何者なのだろう・・・単純にそう思います。