こんばんは、ともすけです。
夏目漱石から考えたことを書いてみたいと思います。決して『平家物語』をやめたわけではありません!書きたいことはまだあります。義経の情報収集力の高さ、まさに孫子の兵法、戦う前に勝つという・・・それは次回以降に。
漱石に『文学論』という本があります。
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そこに「文学的内容の形式」が示されています。
F+f
Fとは焦点的印象、または観念。fはこれに付着する要素。
言い直すと、
F=認識的要素
f=情緒的要素
です。
これを僕たちの日常の「経験」に当てはめると3種類に大別できるとあります。
(1)Fあってfがない場合。
(2)Fに伴ってfが生ずる場合。
(3)fのみ存在してFがない場合。
漱石は経験論的なものの見方をしているような気がします。詳しくはわからないので次に。
(1)は数学的あるいは科学的描写。写実的描写はここに当てはまるのかなと。
(2)は(1)の描写からf(情緒)が喚起されるもの。まあいろいろありますよね。もしかすると1番オーソドックスであり難しいところかもしれません。
(3)は心理描写。こうはっきり言ってしまうと違うかもしれませんが分類するならここでしょう。
あと会話文なんかは概ね(2)に入るのでしょうか。
漱石は『文学論』でShelleyの「A Lament」を(3)の例として出しています。
”Out of the day and night
A joy has taken flight;
Fresh spring, and summer, and winter hoar,
Move my faint heart with grief, but with delight
No more---Oh, never more!”
ロマン派っぽい詩ですがこの詩には具体的な情景描写はありません。心理描写だけではないので違うだろと思う方もいると思いますがこの詩がすべて概念と心理的要素だけでできているというところは納得していただけると思います。
アニメの歌なんかを聴いていると(3)の例はよくあるように思います。例えばテレビアニメ『3月のライオン』のED曲「ファイター」。たぶん歌詞を書いてはいけないと思うので書きませんがEDアニメのYouTubeのリンクを貼っておきます。
歌詞を読んでいただければわかると思いますがすべて概念と心理で構成されています。こういったタイプの歌詞はアニメの絵との相性がとてもよいと思います。歌詞で描かれなかった部分をアニメの絵が補完してくれる、そんな気がします。このED曲には、
「『深淵』をまえにして、いたずらにそれにおののくのではなく、その「深淵」の上に橋を架けることを考えるべきだ。」
とヴァレリーがパスカルを評して言った言葉がよく当てはまるように思います。なにかを乗り越えようとしている少年の心理を絵が補完してくれている。曲としての完成度はわかりませんが絵との相性のよさは秀でていると言えるでしょう。
(1)と(2)が合わさった(F+f)の形式というものを漱石は想定しています。それがどのようなものかを言うことは難しいですが、例えば宇多田ヒカルの「花束を君に」。この歌は朝ドラの主題歌になっていますが(F+f)に近いのではないかと思います。歌詞を書かないとどうしても説明できないのでちょっとだけ書きます。
「普段からメイクしない君が薄化粧した朝
始まりと終わりの狭間で
忘れぬ約束した
花束を君に贈ろう
愛おしい人愛おしい人
・・・」
最初の1行が(2)。異議もあるでしょうが歌詞という性質を考えると映像をつくるなら歌詞の方が主導権を握ると考えて納得してください。2、3行目が(1)。加えるなら4、5行目が(3)。無理やり感はあるかもしれませんが概ね(F+f)形式というものがどういうものかを感じ取ってもらえるのではないでしょうか。
文章を書いて伝えるということはとても難しいことだと思います。漱石の『文学論』は100年以上前のもので古びていると思われる方もいらっしゃると思いますが、ものごとというものは常に先端がいいというものではないと僕は考えています。その時代時代の最高知性が命を賭して書いたものはやはり素晴らしいものになっている、そう僕は思います。
文章を書くときに書き手はなにかを伝えようとします。僕もこの文章を書くときになにかを伝えようとしています。哲学で真理とは何かという問いがあります。僕はこの文章で真理を書かなくてはならないと要請されていると無意識に感じています。それがどのような形をとるかは別としてです。文学でも形式と内容のどちらを重視するかという問題があります。ここ数年のヒット作の傾向を見ているとやや形式に流れている気がします。
去年の邦画最大のヒット作だった『君の名は。』は形式的な完全さを求めた作品だったような気がします。観客はその内容、意味することには関心を向ける必要はなくその物語の形式を楽しんでいた、僕は1回だけしか観ていないのですがそのなかの1人です。(余談ですが真理論には整合説と対応説というものがあり、このような見方は整合説に近いと思います。このような見方は真理の源を認識主観におきます。)
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内容の方を重視する作品というのはほとんど見かけなかったというか僕がボンクラだったからかもしれませんがおそらく時代の要請がないのかそれを許さない状況があるのではないかと思います。強い信念とそれに対応する事実の結びつきが内容をより強くするのだろうと思うのですが、そのような作品は重い作品となり敬遠されてしまうのかもしれません。(また余談ですがこちらは対応説に近いと思います。経験論はこちらをルーツとすると言えるので『文学論』を書いた当時の漱石はこちらの考えをベースに作品を書いたのかもしれません。)
ここまで読んでくださった方は、結局なにが言いたかったのだと思われる気がしますが僕は何かを伝えたいと思っているのだと思います。それを確信しているのに表現することができない。だから書き続けているのでしょう。また尻切れトンボになってしまいましたがこの阿呆みたいな文章を読んでくださった方、ありがとうございます。