こんばんは、ともすけです。

日本に仏教が伝来してどのように受け入れられていったかについて書きたいと思います。

高校レベルの日本史で習っていると思うので今更感はあるかもしれませんが、別に書いている『平家物語』と関連があるものなので、確認ということで書かせてもらいます。

 

 

寺を見ていきたいと思います。

学校でならったあの伽藍配置から見ていくと、

まず蘇我氏の飛鳥寺、聖徳太子の建てた四天王寺、法隆寺まで。

飛鳥寺、四天王寺は卒塔婆中心に配置されていますが、法隆寺で金堂と対等になっています。これはとても興味深いですね。

そして天武天皇が建てた薬師寺に至っては、卒塔婆は脇役となっています。聖武天皇の東大寺では外に追いやられているようにも見えます。

ここに仏教に対する考え方の移り変わりを見ることができるように思います。

 

 

聖徳太子の時代は日本で仏教を熟知している人はおそらく聖徳太子一人だったでしょう。少なくとも聖武天皇の時代でも、なにかよくわからぬが国を治めるために・・・的な雰囲気を残していた気がします。ちなみに金堂は仏像があるわけですが、卒塔婆には釈迦の骨(仏舎利)があります。天武天皇はお釈迦様よりも薬師如来のご加護がほしかった、と考えると薬師寺の伽藍配置もなるほどそうなのだなと思います。薬師寺の三重塔はフェノロサをして「凍れる音楽」と言わしめていますね。卒塔婆が軽んじられていたわけではない気がします。

 

 

聖武天皇は鎮護国家思想の持ち主・・・まあ仏教を利用して国を収めようとした人です。国分寺、国分尼寺をつくって国中に仏教を広めた人ということは確かでしょう。この時代は東大寺大仏開眼供養会などの大きなイベントがあったり、中国のスーパースター鑑真が日本に来てくれたりして、日本の仏教にとっては輝かしい時代だったと言えるでしょう。南都六宗で学問的に仏教が研究されたりもしています。奈良は大仏教パーティーだったでしょう(意味不明)。

 

 

鑑真について少し書くと、鑑真は戒律を日本に伝えました。東大寺に戒壇院を建立しています。天下三戒壇のひとつです。ここで授戒しなければ正式な僧ではないのです。なにげに聖武天皇が授戒第1号だったようです。鑑真は唐招提寺で没します。鑑真は今で言うとどうなんでしょう、サッカーで言えばメッシが日本の小学生のサッカークラブに招かれてプレイするみたいな感じだったんじゃないでしょうか。鑑真なくしては日本に正しい仏教が普及するのはさらにさらに時間がいったでしょう。

 

 

奈良の大仏教パーティーが続きますが、寺をつくったり仏像をつくったりでお金を浪費していきます。さらに僧の政治力が強くなり自分が政治の実権を握ろうと考える人が現れます。代表的な人物が道鏡ですね。道鏡は自分が天皇になろうとするというとんでもない僧でした。スキャンダラスなものを含んでいるようですが、それだけ仏教というものの影響が強かったということです。

 

 

あまりにも熱狂した奈良の大仏教パーティーから逃れるべく、京都へと遷都することになります。ここから京都で新仏教が現れてくるわけです。それは次回に。