おはようございます、ともすけです。

 

 

竹田青嗣『現象学入門』を読みました。

 

 

1989年に出版されています。この時代の雰囲気は覚えていますが、僕はこの時代の本というのは疑ってかかるところがあります。このころに出版されたものはチャート式○○のような僕から見るといかがわしいと思えるモノが多かったからです。この本もこの時代の空気のなかで書かれたものだなという印象を受けました。

 

まあ書くスタイルの好き嫌いは人にあると思うのでそれはさておくとして、この本はフッサールの現象学をもとにして書かれています。「フッサールの現象学」ではないようです。「竹田青嗣がフッサールの現象学をアレンジした本」と言っていいでしょう。それも1989年時点ですので現在とは30年ほどの開きがあります。最新の現象学についてはそれ関連の本は結構出ているようなのでそちらを読んだほうがいいのかもしれません。

 

僕がなぜこの本を選んだかというと、といっても買ったのは十数年前になりますが、他の現象学の本が難しすぎたというのがあります。「現象学」って何?という人もいると思うのです。現象学とは僕に言わせると、フッサールという数学専門の人が哲学について考えたもので、とても綿密で地味な作業を行っているもので思考のダイナミズムのようなものはまったくないものです。「私」の意識から主観、客観のもつ臆見を取り除いて「私」にとっての真の世界を見てみようというものなのかもしれません。

 

この『現象学入門』では竹田青嗣は「主観ー客観」図式というものを軸にしています。この図式に哲学はこだわり続けていたと。それはフッサール以降の実存主義、構造主義、ポスト構造主義もそうなのだと。しかし現象学は「主観ー客観」図式を取らない。だからすごいのだと言いたいようです。読んでいても竹田現象学が主観ー客観図式をなんというか乗り越えているというような感じはするようなしないようなという感じなのですが、僕はこの本の90ページの「6 <内在ー超越>原理」というところが興味を引きました。

 

内在と超越の違いを竹田は、

 

「もはや明らかだろうが、フッサールによれば、「超越」(たとえばひとつの机がある経験)は一種のドクサとして”構成”されたものだが、「内在」としての<知覚>体験は、原的な体験であり、いわばそれを疑うことに意味のないような、「不可疑性」の根源と見なされるべきものである。」(『現象学入門』P91)

 

と書いています。内在というのは根源であるのですが、それは、この本を読むとわかるのですが独我論から始まった竹田現象学においては、掘っていくとどんどん掘り進められる井戸のようなものできりがありません。竹田の言っていることはおそらくそういうことではなく、その時間での知覚における”内在”的な感覚体験、人がそのように感じたという初源的な事実のことを「内在」と言っているようです。どっかで区切りをつけろみたいないい加減なことでもなく、考え方を変えてその「時間」=いまにおける根源を「内在」と呼んでいるようです。

 

つまり竹田は「可疑性」と「不可疑性」の境界をつくりたいわけです。そうすると「内在」が「不可疑性」のモノ、「超越」が「可疑性」のモノということになります。ここに竹田現象学のひとつの鍵があるように僕は思います。現象学的還元をしていくときに「超越」はドクサを含むとしてエポケーし、「内在」だけを「妥当」するものとして信じるみたいな感じでしょうか。その内在を「知覚経験」とまた読んでいます。ここの時点で個々の人間は疑うことができない=「不可疑」自分の限界に到達するわけで、それが「内在」なのでしょう。

 

この「内在」を知覚体験に限定したフッサールなのか竹田の視点は白眉だと思います。これはこれで考えてみたい問題です。しかし疑問も湧いてこないわけではないです。まず「内在」の話の前に書いた「主観ー客観」図式と「内在ー超越」は似てないかということです。いや、フッサールの内在は主観ではないのだと言うかもしれません。ここで書くには時間がないので(すいません)書きませんが現象学のやり方はデカルトのいうように「コギト」という魂の座を与えることはしていないようです。しかし「内在」=知覚体験になにか形而上学的なものを感じないでもないと思うのは僕だけでしょうか。このことは知覚体験というものがなんなのかを説明しきったときに解決されるものだと思います。

 

そして「主観ー客観」図式が哲学の陥った罠だみたいなことがずっと書かれているのですが、別にそういうわけでもないでしょう。スピノザやライプニッツ、そしてフッサール以降のドゥルーズやデリダは二元論でモノを考えていない。デカルト、カント、ヘーゲルという教科書的ラインだけを取り出して批判しているところに竹田の考えに?と思ってしまう部分があります。

 

さらに言うと「内在」ということですが、ドゥルーズは「内在」をもっと多様に捉えています。構造主義は言葉というもの、外部に形而上学的なものを持ってきたと批判されているようですが、デリダはそれを脱構築しています、ドゥルーズは構造主義を明らかに超えています。僕はドゥルーズの言っていることはよく理解していないのですが、ドゥルーズのいう「内在」はメビウスの輪のように内在と超越が結びつくもので、ゆえに主観と客観も結びつくし心と身体も結びつくものである気がします。

 

竹田はこの本で、デリダの『声と現象』だけしか取り上げていないということも説得力に欠けるところだと思います。約30年前の本なので日本にはまだデリダがそれほど受容されていなかったのでしょうか。いまは続々とデリダの本が翻訳されていますものね。

 

と書きましたが、この本は現象学について書かれたもっとも簡単な入門書であると僕は思いますし、これを読むことで、サルトルが目の前のカクテルについて語れるようになった感動を追体験できると思います。現象学はそれ以降の実存主義、構造主義、ポスト構造主義を語る上で欠くことのできないものです。サルトルの『嘔吐』の吐き気も現象でしょう。構造主義は現象学批判から始まっています。僕はこの本を読んでいて還元した意識があまりに抽象的であり、これではとても共通了解を説明できるとは思えませんでした。確かに頷くところはあります。男と女という違った性では性欲に共通了解がない・・・いま流行りのテレビの不倫騒動などを見ていて感じますw