こんにちは、ともすけです。

 

久しぶりに読書の感想を書きます。

 

ボルヘスの『伝奇集』収録、「八岐の園」のなかの短編、「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」です。

 

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27ページほどの物語ですが非常に面白い形式・内容になっています。

こういうの好きな人ってかなりいるんじゃないかなーと思います。きっと学校の現国では見ることのできない小説でしょう。1940年ころに書かれているのかな。現代から眺めてみると非常に示唆的な部分があります。

 

 

あらすじだけ書いてみます。あらすじを書くのが非常に難しい小説ですがチャレンジします。

 

ネタバレ超注意です!

 

第1章

わたしは友人(ビオイ・カサレス)と議論していました。

「語り手が事実を省略もしくは歪曲し、さまざまな矛盾をおかすために、少数の読者しかーーーごく少数の読者しかーーー恐るべき、あるいは平凡な現実を推測しえない、一人称形式の小説の執筆についてである。」

 

その中で友人は、ウクバールの異端の教祖の一人のことばを思い出します。それは『アングロ・アメリカ百科事典』のウクバールの項に載っているといいます。しかしわたしは調べてみたが載っていない。ビオイめでっちあげたなとわたしは思います。

しかし翌日にビオイから電話があり、第46巻に書かれているという。

わたしはビオイとビオイの持つ『アングロ・アメリカ百科事典』を調べます。すると私の持つ46巻は917ページだったが、ビオイのものは921ページだった。この余分な4ページにウクバールが書かれていたのです。

 

わたしとビオイは丁寧にウクバールの項を読んでみました。すると「厳密な文章のかげに重大な曖昧さがひそんでいることに気づ」きます。地理の部に出てくる14の名前のうち11がわからず、知っているクーラサン、アルメニア、エルズールスも曖昧なかたちで本文に組み込まれています。歴史上の名前は、「いかさま師で魔術師」のスメルディス1人だけ。

 

「言語と文学」の部は短いものでした。ウクバールの文学について書かれていて、その叙事詩や伝説はまったく「現実と関わりを持たず」、ムレイナスとトレーンというふたつの架空の地方にまつわるものでした。文献に4冊あげられているがそれをわたしは見たことはない。しかし、ド・クィンシーの本『著作集』第十三巻のなかで、その4冊の1番目の『小アジアのウクバールという国にかんする、興味深く読むに値する考察』の著者ヨハン・ファレンティン・アンドレーの名前を発見する。彼はドイツの神学者で薔薇十字という空想の共同体について記述している、

そしてこの共同体は彼が予測したところにならって他の人々によって設立されたこと、を知ります。

 

その夜、わたしとビオイは国立図書館を訪れますが徒労に終わります。ウクバールに足を踏み入れた者はひとりもいないらしい。

 

 

第2章

わたしはハーバート・アッシュという男について想像します。男やもめで子供もいない、数年ごとにイギリスに帰り日時計と樫の森を訪れたと。わたしの父と彼はイギリス流の友情で親交を結んでいたらしいです。

「あの土地に滞在したことを彼は一度も口にしていなかった……。」彼とはアッシュです。

アッシュは死ぬ前に封をした書留小包をブラジルから受け取っていました。英語で書かれた「トレーンを扱った最初の百科事典第十一巻。Hlaer-Jangr」。「オルビス・テルティウス」という文字の入った、青い楕円形のスタンプが押されてありました。

 

「百科事典第十一巻」の「存在」を否定するもの、それに反論するものが現れます。アルフォンソ・レイエスは第十一巻以外を復元しようじゃないかと提案しました。「獅子は爪で知れる」ということだそうです。

 

「トレーンを考え出したのは、果たして何者なのか?」

 

1人の隠れた大天才にひきいられた「秘密結社」の創造物だと推定されました。

最初、トレーンは単なる混沌、無責任で放埒な想像力から生まれたものと信じられていました。しかし、いまではそれは「一個の宇宙である」ことがわかってきます。

わたしはその「宇宙観」について語りだします。ここからはあらすじを書くのが非常に難しいです。

 

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「ヒュームは、バークレイの主張は論駁の余地がなく、しかもおよそ説得的ではない」と書き残しました。しかしこの断定はトレーンの場合にはまったく誤っているといいます。トレーンという天体の人々は唯心論者なのだそうです。

 

「彼らにとっての世界は、空間における物体の集合ではない。」

「独立した行為の異質的な連鎖なのである。」

「連続的で、時間的だが、空間的ではない。」

「あの天体の人間たちは、空間ではなく時間のうちに継続的に展開する一連の心的過程として、宇宙を認識している。」

「この一元論もしくは完璧な観念論が科学を無効のものにする。」

 

「トレーンの哲学者たちは真理を、いや真理らしきものをさえ探求しない。彼らが求めるのは驚異である。哲学は幻想的な文学の一部門である。」

トレーンの学説で唯物論が問題になりました。ある思想家たちはそれを熱狂的に主張しました。十一世紀のある教祖は九枚の銅貨の詭弁を考え出します。結論だけを書くと、それは反駁されました。教祖は銅貨に「存在」という神聖なカテゴリーをあてはめようとしたということだそうです。百年後ある思想家が大胆な仮説をとなえます。その推論によれば、「ただ一個の主体しかなく、この不可分の主体は宇宙の存在のすべてであって、これらの存在は神性の器官であり仮面である。」というものです。『百科事典第十一巻』には、3つの主要な理由がこの観念的汎神論の完全な勝利を決定づけたことが書いてあります。①唯我論の否定、②諸科学の心理的基礎を保持することの可能性、③神々への礼拝を継続することの可能性、です。

 

トレーンの幾何学はふたつの体系①視覚的なもの②触覚的なものを持つ。②がわれわれの幾何学に相当する。トレーンでは②は①の下位にある。かなり端折っています。

 

文学において唯一の主体の観念は万能である。書物に署名があることは珍しい。僕たちにとっては署名があることが当たり前のように思いますよね。トレーンでは違います。署名は批評家が捏造したものです。

 

何世紀にもわたる観念論の支配は現実に影響したといいます。

「トレーンのもっとも古い地方では、失われた物体の複製も珍しくはない。」

第一の人間が鉛筆を発見するとします。第二の人間がまた鉛筆を発見します。それはフレニールと呼ばれるのです。

フレニールの組織的な生産が始まったらしいです。最初の試みは失敗しましたがその「作業方法」は記憶に値するものでした。

重要な発見をもたらした囚人に自由を約束して発掘をさせるという実験をしました。彼らは発見するべきものの写真を見せられます。しかし彼らはさびだらけの車輪いがいのフレーンを発掘することしかできませんでした。

「期待と渇望はむしろ障害になる可能性がある。」

この実験は3つの大学で失敗に終わります。4つ目の大学で学長が発掘の初期に死亡したため、ひとつの黄金の仮面と、ひと振りの古い剣と、二、三の素焼きの壺と、いまだに解読されていないが碑銘入りのさびを吹いた、手足のないトルソを発掘します。つまり「造り出した」のです。

「集団による調査はたがいに矛盾する物体を生産する。現在では、ほとんど行き当たりばったりの、個人による作業が好まれている。」

 

「トレーンにおいては事物はみずからを複製する。同様に、人々に忘れられると輪郭が薄れ、細部が消える傾きがある。」

 

1940年、サルト・オリエンタルにて

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ということでトレーンの宇宙観の話は終わります。

 

1941年3月、ハーバート・アッシュの持っていたヒントンの本のなかにグンナール・エルフィヨルド直筆の手紙が発見されます。手紙はトレーンの秘密を完全に明らかにするものでした。

ある秘密の慈善団体ーーーダルガルノ、バークレイがいたーーーがひとつの国を創造するために集まったそうです。彼らは一世代では一国を創りあげるのに充分でないと悟ります。そして世襲制を取ることにします。2世紀の空白があり、秘密の慈善団体はアメリカで息を吹き返します。1842年、メンフィスで会員のひとりが禁欲主義の百万長者バックレイと話し合いました。バックレイは一国の創造ではなくひとつの天体の創造を提案します。それプラス、彼のニヒリズムの所産=秘密にしておくこと、を付け加えました。

バックレイはまた、架空の天体にかんする組織的な百科事典の刊行を提案します。バックレイは神を信じていなかったのですが非在の神にたいして、死すべき人間も世界を産むことが可能であることを示そうと望んだのです。

 

1914年、結社は300人を数えるその協力者に、『トレーン第一百科事典』の最後の巻を配布しました。この『トレーン第一百科事典』は英語ではなく、トレーンのさまざまな言語で書かれたべつのものより精細なものになるはずでした。それは『オルビス・テルティウス』と名づけられました。その造物主のひとりがハーバート・アッシュでした。

 

1942年、ファウチニ・ルチンゲ公妃の受け取った銀製品の入った大きな箱の底から逸品が現れます。

「荒々しい紋章の動物が刻まれたユトレヒトやパリの銀器と1個のサモワールである。」

そのなかに神秘的におののく1個の磁石が混じっていました。青い針がしきりに北極を指そうとあがいていたそうです。金属のケースは凹面をしており、盤の文字はトレーンのかずあるアルファベットのひとつに属していました。

 

これが幻想世界の現実世界への最初の侵入だった。

 

第二の侵入をわたしは目撃します。それは数ヵ月後、ブラジル人経営の雑貨屋で起こります。わたしとアモリンはその雑貨屋で簡易ベットを用意してもらい横になっていました。隣の見えない男のせいで一睡もできなかったそうです。そしてその見えない男は明け方に死んでいました。彼は数枚の銅貨と、さいころほどの幅がある輝く金属の円錐を持っていました。その金属の円錐の重さは耐えがたいものでした。この重い物体を手に持ったその痕跡は「嫌悪と恐怖という不快な印象」を与えたそうです。アモリンが数ペソでそれを買い取りました。その死人についてはどこから来たのかも何もわかりませんでした。円錐はーーーこの世界のものではない金属で造られたトレーンの「ある種の宗教における神性の表徴なのである。」そうです。

ここでわたしの個人的な物語は終わります。残りはすべての読者の記憶のなかにあるそうです。

 

1944年頃、メンフィスの図書館で、『トレーン第一百科事典』の四十巻が発見されます。第十一巻のいくつかの信じがたい点、フレニールの増殖などは記述を削除されたり加減されたりしていました。現実世界との妥協が行われたようです。そして現実もいくつかの点で譲歩します。弁証的唯物論、反ユダヤ主義、ナチズムーーーに代わるものとして。人々は譲歩を願っていたようです。人々はトレーンにどうして呪縛されずにいられるでしょう。

 

「現実は、われわれが究極的に認識しえない神の法則ーー換言すれば、非人間的な法則ーーにしたがっている。トレーンは迷路かもしれない。だが、それは人間たちによって工夫された迷路、人間たちによって解かれるようさだめられた迷路なのだ。」

 

「トレーンとの接触やその習俗はこの世界を崩壊させた。その精密さに魅惑された人類は、これがチェスの名手の精密さであって天使のそれではないことを忘れる。くり返し忘れる。」

 

われわれが学んだ、調和的な(そして感動的なエピソードにあふれた)歴史の授業は、「わたしの少年時代を支配した歴史を抹殺してしまった。」そうです。記憶のなかではすでに虚構の過去が他のものの位置を占めているのです。後者(虚構の過去)についてはわれわれは確実なことを知りません。虚偽のものであることすら知りません。古銭学、薬物学、考古学、そして生物、数学も変化の時を待っています……。そして、

 

「いまから百年後に、何者かが『トレーン第二次百科事典』の百巻を発見することになるだろう。そのとき、英語やフランス語、ただのスペイン語などは地上から消えるにちがいない。世界はトレーンとなるだろう。」

 

「だが、わたしは気にしない。アドロゲーのホテルで静かな日々を送りながら、ブラウンの『壺葬論』のケベードふうの試訳ーーー出版しようというつもりはないがーーーの校訂を続けるのだ。」

 

と締めくくられます。

うーん、伝わるだろうか。現代小説まで連なる小説といわれるものの原点のひとつとなっているのではないかと僕は思いました。

小説自体についての考察は気が向いたら。

興味を持たれた方は読んでみてください。