4月16日(日)

香椎宮での奉納日。

奉納準備の前に木下権禰宜が

境内を案内してくださいました。

香椎宮の赤ん坊を抱く武内宿禰像

 

木下家は代々香椎宮の神官の家系であります。

 

前近代の神職の長官を「大宮司」と呼び、

武内宿禰末裔の大膳紀宿禰(香椎武内家)が

世襲しました。

香椎宮は昔、香椎廟でしたので、

宮司ではなく最初は「廟司」と

呼ばれたようです。

伴氏、大膳氏、大中臣氏、

清原氏の四氏が大宮司職に就き

伴氏は江戸時代に絶えました。

香椎宮の組織を強化するため
二十三代目の武内氏信氏が
次男に別家の「木下」を称させたのが
木下宮司家の始まりのようです。

 

木下権禰宜のお祖父様である

木下祝夫氏は香椎宮宮司でした。

【参考】

 

椿女様より

教えていただきました情報から。

木下祝夫氏はドイツ語翻訳家

でもあられまして、

古事記のドイツ語翻訳に

取り組んでおられました。

先日、『儺の国の星』発刊のお知らせ

書きましたが、著者の真鍋大覚氏は

木下宮司の協力者でもあったようです。

 

【参考】 

 

木下権禰宜がお話されている動画や音声は

ネット上にいくつかありますが、

舞仲間が撮ってくれた独自の動画の

文字起こしを致しましたので

シェアさせていただきます。

私はこの時はまだ到着していません。

木下権禰宜の「綾杉編」のお話も

直接伺うことはできませんでした。

動画を撮ってくれていた

舞仲間に感謝です🙏

 

🌲まずは綾杉から🌲

木下権禰宜のお言葉を

ほぼそのまま語り口調で書きます。

 

それではどうぞ右差し

せっかくお越しいただいたので香椎宮の御神木について簡単にご説明させていただきます。由緒を少し話さないといけないんですけど、西暦199年に14代目の天皇である仲哀天皇と神功皇后がご夫婦で福岡にいっときお越しになって、数年間ここでお過ごしになった。ここは行宮(あんぐう)といって仮の皇居だったんですね。

九州の南のほうに熊襲(くまそ)(『古事記』『日本書紀』等に登場する、現在の九州南部に本拠地を構え、大和王権に抵抗したとされる人々)という一族がありましたから、そこと大和朝廷のいさかいを鎮めるために直接お出ましになられたのですが、仲哀天皇がここで志半ば崩御されまして、神功皇后が仲哀天皇志を継いで、兵装して功績を残されたというエピソードがあります。

仲哀天皇はここで崩御されましたので、奥様がお墓ではなく(びょう)(故人を慰め祀るところ)をお建てになられた。ご自身(神功皇后)は大和にお帰りになりますが、

旦那様の亡くなった場所であり、旦那様の廟が鎮まっているこの象徴的な場所に
神功皇后が綾杉をお手植えされるんですね。その意味は旦那様の御霊(みたま)にお鎮まりなってほしいことと平和を祈ってのことでした。ご自身は大和に戻ってしまうけれども、代わりに旦那様の御霊(みたま)と平和をここで見守るように、祈りを込めて植えられたのがこの綾杉でそれが1800年ほど前のお話です。

以降、福岡に大宰府と云う行政施設が出来るんですね。(和読み:おほ みこともち)

大宰府のトップになったかたは、まず香椎宮にお詣りして冠に杉の枝をちょっと差して大宰府にお戻りになり初日を迎えられました。

綾杉の枝を差す理由はお役目的に国家鎮護や世界平和のご加護を受けるためでした。

香椎宮の今の言い方としては、この綾杉が意味するところは平和とパートナーの安らかな眠り、利他的な祈りの象徴とご説明することがあります。

80年代90年代は女性の社会進出の象徴みたいなことでウーマンリブの時代でしたから

女性の参拝者がこの綾杉にご加護を受けにいらっしゃっていました。

ちなみにちなみに言うと、香椎周辺の皆さんは旦那さんより奥さんのほうが強いってよく言うんですよ。それは、神功皇后の影響だと言われています。だから女性が強い場所ではあります。ですから皆さん、ここで強くなって帰られたら幸いです笑

綾杉は本来は二本の杉の木だったんです。

何度か落雷に遭ったり、あるいは長い歴史の中で政治的にどちらかに(くみ)しないといけない時期がありましたから政敵があるときもあれば、自然災害で落雷が落ちたり、そういうこともあったんですけど、その都度芽吹いてですね。

元々兵装の両肩に差していたんですね、今でいう御守りです。アイヌの方が熊の毛皮を着るような感じです。

雷が落ちて、また芽吹いてこのような形になって、一回千切れてるんですけどこういう風に、また伸びてきているんです。

力強さみたいなものが香椎宮の綾杉に象徴されています。

よかったら皆さんも杉の葉をちょんと差していただいて笑

つづく