前記事のつづきです。

 

 

木下権禰宜に引率され

綾杉から拝殿へ移動

私はこの時もまだ到着していません

皆でお詣りキラキラお願いキラキラ

 

 

 

勅祭社編は動画がありませんので

HPの内容と

木下権禰宜がお話になった内容から

記憶にある部分を記します。

⇩こちらの説明から私も合流致しました。

神宮及び勅祭社一覧

この一覧にある神社は、右から勅祭社になった順番になります。

※伊勢神宮は別格とされて勅祭社に含めない。上賀茂神社が最初だったのですね

天皇様の御使(おつかい)が、御幣帛(ごへいはく)捧持(ほうじ)(高くささげて持つこと)して御参向になり、神前に宣命(せんみょう)(そう)せられ、勅使が直接御祭儀を執り行われる御祭のことを称するので、現在この様な御社が、伊勢、熱田、明治の各神宮を始め全国に十七社、九州では宇佐神宮と香椎宮の二社でございます。

宣命(せんみょう)とは、天皇様が神様に申し上げられる祝詞の義で、黄色の鳥ノ子紙に書かれてあります。

 

只今香椎宮に残っております宣命(せんみょう)は、延享(えんきょ)、文化、元治(げんじ)、そして大正、昭和のものが、官幣送文(かんぺいそうぶん)等と一緒にございます。

香椎宮に勅使が御参向せられた記録は、天平九年四月(737)、新羅の無礼の状を告げ給う為のものが最初であり、続いて天平十三年正月と香椎宮旧記に記されてお

り、毎年の御参向、時には一ヶ月に二度の御参向もあり、これを頻浪(しきなみ)奉幣(ほうへい)と申しますが、元応(げんおう)三年(1321)の勅祭中断から、延享(えんきょ)元年(1744)勅祭が再興されて以降、甲子の年(60年に一度)が勅使御参向の年と定められ、以後、文化元年(1804)・元治元年(1864)と続き、大正十四年の勅祭より10年に一度が勅使参向の年となり、文献によると今日まで108回の勅祭の斎行(さいこう)が確認されております。

今でこそ、飛行機でご到着になられるようになりましたが、昔は奈良、京都から百幾拾里(ひゃくいくじゅうり)の行程を、多くの費用と日数をかけて、お出でになりました。香椎宮での受入れ準備が、これ又大変でした。

当時の政府出先機関でありました、大宰府の長官((そち))を始め、国司、郡司、筑前の神職等、揃って御奉仕申し上げ、勅使館の新築、道中の御警固等、香椎廟司(大宮司)を筆頭に社家、神人等が、斎戒沐浴(さいかいもくよく)(神事、仏事に関わる行事にたずさわる前に、心身を清めるために行いや食事をつつしみ、体のけがれをなくすために身を洗い清めること)、精誠(せいせい)(純粋な誠実さ)を(ぬき)んでお仕えしたことは勿論でございます。

また現在の勅祭「祭式次第」「行事作法」も、古式に(のっと)り、皆宮内庁のお許しを得て、福岡県内各神社の神職の方々の助成のもと、厳重に執り行われております。

古代より朝廷の崇敬(すうけい)が極めて厚い神社に天皇陛下よりの御幣物を奉り、御祭文を奏上する方を勅使とよび、その勅使を迎えて執り行う祭儀を勅祭といいます。香椎宮は全国に十六社ある勅祭社の一社です。当宮勅祭は十年毎に執り行われていまして、宇佐神宮と同時期であります。

ちなみに7世紀頃は、朝廷が尊崇(そんすう)する神社は1番が伊勢神宮、2番が香椎宮、3番が宇佐神宮、という順序だったのだそうです。

 

つづく

 

***

 

 

家庭画報6月号214ページに

舞台での瑞穂さんの様子が

掲載されました。

 

2月28日鹿児島で開催された

『美しき神々の舞』の公演の一コマです。

コシノジュンコさんデザインの

お衣装に包まれ、

いつもの白い女神様の雰囲気とは

また違って妖艶な雰囲気です。

家庭画報が置いてある

病院や美容院での待ち時間に

よかったら覗いてみてください。

また、バレエダンサー

西島数博さんのブログでも

練習風景などご覧いただけます。

 

家庭画報6月号には

たまたまですが、

「日本の聖地」ということで

206ページに

◆宗像大社 沖津宮遙拝所

◆織幡神社

◆志賀海神社

◆桜井二見ヶ浦の夫婦岩

◆神在神社の神石

5か所が紹介されていました。

全て福岡県の玄界灘を望める場所に

鎮座しています。

素晴らしい場所ですので

機会がありましたらご参拝くださいキラキラ

 

宗像大社では2022年4月に奉納させていただきましたが、2015年11月宗像大社 沖津宮遙拝所で瑞穂さんが舞われました。