先日、相棒さんに
「木下権禰宜が・・・」と話したところ
「何それ?新種のネギ?」と
返ってきたのが面白かったです。
(本人至って本気)
前記事のつづきです。
拝殿横で
木下権禰宜のお話が終わる頃
瑞穂先生に
「仲哀天皇の所にも行きませんか?」
とお誘いしたところ
皆で行くことになりました。
先生と並んで
仲哀天皇橿日宮蹟(古宮)へ
向かう途中
「今回の奉納は本当に嬉しくて
魂が喜んでいるんです」と
いうようなことを仰いました。
それは
香椎で産まれた私にとって
嬉しいお言葉でした。
訶志比宮蹟・棺掛椎
先ほどは「橿日宮」と書きましたが、「訶志比宮」は『古事記』に登場する、第14代仲哀天皇の皇居の仮宮の名前です。現在の福岡県福岡市東区香椎にあったとされ、『日本書紀』では「橿日宮」と表記します。
14代目の仲哀天皇は大和には都を置かず、穴門の豊浦宮に皇居を置いた後、筑紫の訶志比宮に皇居を構えました。
仲哀天皇と神功皇后は此処にお住まいになられていました。
目的は、ざっくり言いますけど、当時熊襲と揉めていましたので出兵前の拠点として、こちらに行宮をお建てになられたんです。
神功皇后はいわゆるシャーマン体質というか神降ろしをされるかたでしたので、ここでご託宣を受ける儀式を行いました。
その儀式は蝋燭を立てて、神功皇后は中央にお立ちいただいて傍に審神者(神様の通訳のかた)として武内宿禰をたてました。
仲哀天皇は傍で琴を弾く担当でした。
琴を弾くというのは神様の言葉が外に漏れないようにするためでした。
神事でも割と和琴を弾いたり、我々が「おーーー」と言ったりしますけど、あの意味は見るな聞くなみたいなことでして、周辺に音が漏れないように仲哀天皇は琴を奏でておられました。儀式が始まったら灯りを消して見えないようにするのですね、
言葉が降りて来ると神功皇后が何か仰るわけです。
武内宿禰が言うには(伝わっている通りに話しますが)
降りてきた神様は「熊襲ではなくて朝鮮を目指しなさい。そこに金品財宝がある。そして私を祀りなさい」と仰られたそうです。
仲哀天皇は「私は充分に天照大神様をはじめ、神様を祀っています。
それに西(朝鮮半島のほう)を見ても何もないではないですか!信じられません」と仰いました。
武内宿禰が「そういうことを言わずに従ってください」と説得するも、
琴をなまなま(不承不承=嫌々ながら、しぶしぶ))に弾きました。
武内宿禰が「そういう弾き方はやめてください」と促したのですが琴の音が聞こえなくなりました。
そこで灯りを点けてみたら、仲哀天皇は崩御されていました。
ようするに、神様の怒りに触れて亡くなられたという稀な天皇さんでして、その天皇さんの突然の崩御は一大事ですから隠す必要があったわけです。
それで棺を用意して椎の木に紐をかけて寝かせて吊るしたんですね。
棺を掛けたんです。あたかも生きておられる仲哀天皇に対してお伺いを立てるような会議をしました。その時、椎の木が非常に香ったことから
"香椎"という言葉が生まれました。
(仲哀天皇橿日宮蹟の椎の木を示しながら)その時の椎の木がこの椎の木です。
この木は「棺掛椎」と言いまして香椎という名前の(綾杉以外の)もう一つの御神木です。
仲哀天皇はここで亡くなられていて、ここに廟があって、ここで神降ろしの神事が行われていました。この周辺一帯はビリビリ感じる人はバリバリわかるという風に言われます。五感の鋭い人は特別な場所だってわかるそうです。わかりますかね?
私はここが遊び場だったので子供の頃も走り回っていたのですけど(ここで首を傾げる。わからなかったようなポーズ笑)今でも椎の木の後ろ辺りに仲哀天皇をお祀りする廟跡みたいなのがあって石もゴロゴロしていて、基礎のような礎石が乗っていたりちょっとこんもりしています。
棺かけの椎
(仲哀天皇大本営御旧蹟の方向を指して)奥まで行くとに中心地の石碑みたいなのがあるんですけど、そこまでご案内させていただいていいですか?
先生:もちろんです
つづく