前記事の続きです。
一行は仲哀天皇大本営旧蹟の
石碑前に移動しました。
「訶志比宮」
これは仮のお住まいの漢字でして、
漢字はですね、日本語はまず音があって、そこに中国から漢字が入ってきて活用するようになりました。意味ではなく音で漢字を使っていたんですね。
だからこれで「訶志比宮」。これは古事記の書き方なんですけど日本書記では別の書き方「橿日宮」になります。
古事記は宣命体といって日本語なんですけど日本書記は漢文で書かれていまして、そういう意味で漢字の取り扱い方が違います。
おそらく日本書記のほうが漢字の意味をちゃんと汲んだ使い方をしているのかな。
さっきその香椎宮の由緒の中で一点、絶対言わないといけないことがあったんですけど、仲哀天皇が崩御されて廟をここに残して、綾杉を刺し、神功皇后が大和にお帰りになられた。それは西暦200年のお話です。
およそ500年後の723年元正天皇の時代、元正天皇は女性の天皇さんなんですけど夢枕に神功皇后がお立ちになられた(ご託宣)。
それは「旦那さんと一緒に祀って下さい」ということでして、亡くなって尚、「旦那さんと一緒に居たい」と500年後に当時の天皇に仰られた。
仲哀天皇の廟があった場所をご夫婦でお祀りする神社として創めたんですね。724年、聖武天皇の時代に「香椎廟」という名前ですけど神社としての香椎宮がスタートしました。
今、2023年ですので来年で1300年になるというタイミングです。
今のエピソードをよく引き合いに出して香椎宮はパートナーと…(ここで木下権禰宜は笑って話が途切れる)
…のことだけではなく、世界の平和とか旦那様のこととかご家族のこととか、ご自身のことだけではなくて、自分の大事な方々、サイズはそれぞれにあるけど、地域なり社会なり、世界も色々あると思うけど、そういうことの平和とか幸福を祈る象徴みたいな場所です。
なので、伊勢神宮さんと同じく香椎宮も私幣禁断(天皇以外の者が幣物を捧げることを禁じた制度)という時期がありまして、個人的なお供え物は禁じますということで
伊勢神宮さんは今もされています。香椎宮もそういう時期が続いていたので参道はですね、楠並木の参道は本来そこは公的な目的や利他的なお参りを目的とされる方のための参道でした。ちょっと脇に川沿いの小径があって、そこは一般の地元の人たちの参道で分かれていました。
伊勢神宮さんは今もおみくじを置いていませんが、そういうこと(私幣禁断)に繋がります。
(2022年6月7日撮影)
⇧この石碑が建っているところが地元の人たちの参道だったと思われる
ありがたいことに今日皆さんが御奉納されるということが今話した香椎宮が本来大事にしていた、香椎宮の祈りの根源みたいなところと同じものを多分”舞”として方此方でされて、今日ここでしていただけるということで、香椎の香椎宮に1つまたタッチしてただけてそれを皆さんに観て頂けたら一番香椎宮らしい時間みたいなもとができるんじゃないかな、ありがたいなと。
もうそのあと(奉納舞の)は何をしていただいても構いません笑 本当にありがたい限りです。
そういうことで、ここが行宮の中心地です。
仲哀天皇大本営旧蹟の石碑は戦前に建てたものなのですが神功皇后のご意向は朝鮮に出兵したということですから、戦前の香椎宮にあやかろうとした当時の方々が大本営という戦を連想させるようなニュアンスの言葉を選ばれたんだろうと思います。
基本的に香椎宮の中心たる場所はここですよ。ここは見晴らしが良かったんですね。
天然の丘だった場所です。
※大本営:戦時や事変の際に元首のもとに置かれる最高の統帥部
木下権禰宜のお話 完
【お尋ね】
4月16日に香椎宮拝殿でいつくしみを舞ったあとの、木下権禰宜がお話になっている動画を撮られている方はいらっしゃいませんか?とても良いお話をされていたので、もう一度聴きたいと思いましが、瑞穂舞関係者に動画を撮っている人は居ませんでした。もし、お持ちのかたがいらっしゃいましたらご一報くださいませ🙇