聖母宮

2023年12月3日(日)参拝

 

奉納舞の

場当たり稽古で伺ったときに

参拝させていただきましたお願い

 

しょうもぐう

住所:長崎県壱岐市勝本町勝本浦554−2

壱岐島の芦辺町箱崎と

福岡県福岡市東区箱崎。

壱岐島の勝本町勝本浦と

志賀島の勝馬など

壱岐島と福岡市東区の地名が

重なることが

以前から気になっていました。

壱岐市勝本には

志賀神社が鎮座しています。

神功皇后の出身地とされる

近江(滋賀県)地方

琵琶湖南西岸、現在の大津市一帯

も古くは志賀と呼ばれていたそうな。

神社を囲むように石垣が積まれています。

 

南門(脇門)

天正20年(1592)

鍋島直茂(肥前佐賀城主)により

寄進されたもの。

鳥居

鳥居をくぐった左手の石垣は

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、

肥後熊本藩初代藩主

加藤清正が風待ち時

(昔は船の航行は順風を待っていた)

配下に暇つぶしに積ませたものだと

伝わります。

西門

長崎県指定文化財。

天正20年(1592)4月に

加藤清正が

朝鮮出兵の際に寄進したもの。

手水舎

南洋パラオ島産の

大シャコガイが使われています。

こんなに大きな貝、はじめて拝見しました。

貝は2枚貝のうちの一つで、

もう一つは

南洋ポナペ大神宮の手水所とされています。

ポナペ島:西太平洋、カロリン諸島にある島

手水舎の屋根の蟇股

神輿殿

 

 

狛犬

 

社殿

 

⇧翌日の舞の奉納時

社殿の扉を全て開け放つとこうなります。

拝殿内

真中の特徴的な書体の扁額は

「聖母神殿」だと思います。

違ったら教えてください🙏

◆御祭神◆

 

【主祭神・中央】息長足姫尊(神功皇后)

   足仲彦尊(仲哀天皇)

   誉田別尊(応神天皇)

  住吉大神 上筒男尊

         中筒男尊

       底筒男尊

【配祀・右】 天照大神

 【配祀・左】玉垂神、烏賊津連(いかつのむらじ)真根子連(まねこのむらじ)

 

左の扉には宮司家のご先祖様が

お祀りされています。

烏賊津連も真根子連も

天児屋根命(中臣氏祖神)の後裔、

壱岐直の祖に位置づけられる人物です。

烏賊津連(真根子の父、別名:雷大臣命)は

神功皇后の信頼厚い四大夫

(他に大三輪大友主君・物部胆昨連・

大伴武以連)の一人で

仲哀天皇の崩御を世の中に秘匿する

相談に与るほどでした。

玉垂神は安曇磯良かもしれません。

この扉の中は一度も公開されておらず

宮司様も未見とのことで

次の節目に開けたいというようなことを

仰っていました。

3年後の創建1310年記念だったかな?

聖母宮は佐々木氏を祖とする吉野家が

代々宮司を務めています。

天児屋根命がご先祖様に当たります。

天児屋根命は

高天原で祭祀を司り、

天照大神の侍臣として仕えた神。

天照大神が天岩戸に隠れた時、

 神々は岩戸の前に桶を多数持ち寄り

そのすべてを伏せて置いて舞台としました。

美声の持ち主であった天児屋根命は、

太祝詞を奏上する役を務めたとされます。


現在の宮司様は苗字は違いますが、

吉野家の流れとのこと。

 

以下、

聖母宮の川久保宮司からいただいた

資料より。

奉納画の右上にある「活龍不滞水(かつりゅうみずにとどこおらず)」とは真の龍は一生水中で過ごすことがない。悟りを得ることに落ち着くことなく、世の中に出て役に立つことの意が込められている。

 

【聖母宮旧称】

香椎宮、壱岐香椎聖母宮、

聖母大明神、聖母神社

 

【御神徳】

安産、子宝、海上安全、大漁満足、

厄除け、勝負の神様として知られ

すべての産業、家業の繁栄と幸福を

もたらす守護神であります。

古来より「聖母様」として親しまれ

広くその御神徳が仰がれております。

本殿

三間社流造り(長崎県重要文化財)

【御由緒】

仲哀天皇9年(200年)10月

神功皇后は壱岐に着き、

順風を待たれたこの地を

「風本」と名付けられ、

三韓に出兵されました。

同12月、三韓からの帰路再び立ち寄られ

出兵の勝利を祝い、「勝本」と

改められたと言い伝えられている。

聖母宮は神功皇后三韓出兵の帰路、

異賊(外敵)の首を海中三町余に沈め、

その上に九町八反の築地を築き

末世異賊の競望断絶を祈願された

皇后一夜の霊地です。

又、皇后は三韓出兵の往来の時

この地に建てられ行宮は、

そのまま放置されていた。

しかし、毎夜海中より光る物が昇り、

燈火の如く静かに

しばらくして火燃えて

また海中に入るという出来事が続いたので

里人はその行宮に神鏡を納め

神功皇后をお祀りしたと伝わる。


 元正天皇、養老元年(717年)

国家鎮護を祈願され勅下りて神殿造立。

 同、養老4年(720年)勅使を遣わされ

三国の聖母廟に於いて異賊退散の祈願あり。

同、養老5年(721年)

異敵襲来の時奇端霊験あり

依って勅下り神殿再興。

聖武天皇、神亀元年(724年)

勅により神殿再興。

卜部高巣が斎き奉れる所なり。

このところを香椎宮と称し又、

聖母大明神と申す。
 淳仁天皇(761年)天平宝字5年

鎮西に五社の再興あり。

当社はその一つなり。

桓武天皇、延暦6年(787年)

異賊襲来の時、異賊降伏祈念の為、

社檀を築き奉る。

御霊形・金鏡三面、

中央は神功皇后左右相殿に仲哀天皇、

応神天皇を祀る。

 

聖母宮は、古くは北九州から大陸に至る

海の中道の要津勝本裏に勧請された

式内の名神大社中津神社であったと

思われる。

式社沿革考に曰く

「聖母神社は式内中津神社なるべし」と

あり、中津神社から香椎宮となり

聖母宮に改称された事は

神功皇后の行宮であったこの霊地に

八幡神の信仰が大きく付与され、

神功皇后をお祀りする社と

なったのであろう。

 

筑前香椎宮の編年期に香椎廟の

四至のことが記されている。

「詔テ神鏡ヲ附シ玉フ。

東ハ鴨山、西ハ壱岐、南ハ住吉、

北ハ尾呂。

コレヲ四限トセリ。」

 

「西ハ壱岐」とは、壱岐・勝本の

聖母宮のことであり、福岡の香椎宮との

深い関係があったと思われる。

 

また、当社が「香椎宮」であった頃から

現在の勝本町は香椎宮の鎮座地に

ちなんで「香椎村」と称していた。

(昭和10年4月1日、町制施行により

香椎村から勝本町となる)


 延宝4年、式内社査定の折、

調査にあたったに橘三喜は、

当社の祭神が神功皇后に座します故に

これを式内の兵主神社と早合点し、

聖母宮の石額を兵主神社と新調する。

 

 延宝9年、箱崎宮祠官吉野末益は、

聖母宮祠官後見として、

この誤りを国主に告げ旧に戻されるよう

藩主に哀願した。

ここにおいて藩もその非を認め、

聖母宮の額は元に戻ることになるが

この時より式内としての社号を失う。

 

しかし、古来より国主の崇敬厚く、

壱岐国七大社の一つとして

また壱岐国二の宮として

国主直参の社である。

 

聖母宮宮司を世襲する吉野家は

天児屋根命九世の子

雷大臣の子孫である伊岐氏を継ぎ

現在、80代目である。

古くは壱州惣大宮司兼神主神職之

棟梁として壱岐の祭祀に関わって来た。

(資料引用ここまで)

 

資料を読ませていただき

聖母宮は福岡市の香椎宮より

創建が7年ほど早いため

分社ではなないのかも?という見解です。

 

聖母宮=元正天皇の養老元年(717)

香椎宮=聖武天皇の神亀元年(724)

 

私の妄想では神功皇后の本名

息長足姫命

(オキナガタラシヒメノミコト)

に何らかの秘密というか

ヒントが隠されている気がしております。

 

息長というのは、

「息が長い」という意味、

また、「風を吹く」という意味もあり

風の神ともいわれるそう。

 

読みの「おき」から 沖ノ島との関連や

息=壱岐など

言葉遊び的な繋がりを感じていました。

ただ、直感的な妄想なだけに

自信を持って言えることでは

ありません。

 

近江出身とされる神功皇后を祀る神社が

西日本に集中し、滋賀に少ないのも

不思議に思っています。

活躍の場が北部九州だったのが

大きな理由かと思いますが

それにしても、伝承地が多すぎます。

恵比寿様と大黒様

 

稲荷神社

 

御朱印

見開きの御朱印です。

参拝日を

奉納記念の日付にしていただきましたお願い