母は2月初め 心臓や腎臓が悪いのに、新型コロナに感染しました

でもわりと症状は軽く食欲は落ちたものの熱は下がり

なんとか持ち直してくれた・・と思っていました

3月に入り施設での面会も再開されてホッと一息

 でも3/11の夜に 食べたものを吐いてしまったという電話が施設から来ました。

そしてその後 「血中酸素濃度が90になった」と

「救急搬送しますか?」と聞かれるので「すぐ行くから搬送してください」と返事するも

鎌倉からは2時間はかかるのです。

埼玉の父に「すぐ母のところに行って」と電話して、

一緒に行ってくれるといううちの人と電車に飛び乗りました。

横浜の姉にも「救急搬送されるかも」と電話しました。

その時は「病院に入ったら会えなくなるかも・・」とか

「母は胃瘻とかしないでと言い残してるから搬送してできることはすくないのか・・」とか

考えていました。

すると「もう息がありません・・」と・・電車の中の私に電話が来ました。

 そうか・・・・もう間に合わないのか・・・

それが母が亡くなった時でした。

 

元気な人でした。社交的で運動神経が良くて処理能力がすごくて

いつも私の漫画活動を応援してくれました。

学生時代も、結婚後も、子供ができてからも、引っ越してしまっても・・

埼玉からうちに来て息子を預かってくれたり遊んでくれたり

どれだけ助けてもらったことか・・

ほんとにありがたく、面倒ばかりかけて申し訳なく思っていました。

 

 そんな母も認知症がすこしずつ進み、足が弱くなっていきました。

それでも米寿のお祝いを鎌倉でしたり、逗子に泊まったりしていたんです。

けれどコロナが世界を襲いました

横浜の船で大量のコロナ感染者が出始めた頃です。

 

 県を超えて会いに行くのを自粛しているうちに母は歩けなくなっていました。

父と一緒に住んでいたので、食べたりお風呂はいったりはしていましたが

第一波が終わった時には家で支えをつかいやっと起き上がれるくらいに

体が不自由になっていました。

介護ベッドや手すりを手配し訪問入浴を頼み自宅介護がはじまりました。

でもやがて褥瘡ができてしまい、急遽施設に行くことに。

 

 このころまたもやコロナで全く施設では会えない状況になりました。

その後 リモートで面会できる病院併設の施設に変わりましたが

PC画面の面会は母は全くピンとこないよう・・

なので面会させてくれて、父が歩いていける施設を探し、今度はそこに入りました。

 

 その後は父も毎週面会に行けるようになり

手厚く介護してもらいどんどん元気になって行く母でした。

ほんとに会話も昔のようになって痩せていた体ももどってきていたのです。

「帽子がにあうわよ」

「その着物みおぼえがあるねえ」

「気をつけてね」

いつもの母でした。 

いつも真っ先に私たちの心配をしてくれる母でした。

安定している生活で、ワクチンもうって一安心していました。

 

 

でもデルタの波もひいたころまたまたオミクロン・・・

 

3回目のワクチンを打つ前に母は施設内でコロナに感染してしまいました。

とてもとても気をつけてみんな面会の時は消毒して、手洗いしていたんです。

面会させてくれてほんとにありがたかったです。

誰が悪いんでもないと思うんです。

 でもやっぱり思ってしまいます。

コロナがなければ・・

もっと会えて もっと寂しくなくいられたかもしれない

コロナがなければ・・・

 

母の葬儀をはさんだ頃に描いていた作品が雑誌に載りました。

奇しくも母の愛を描く話でした。

最後のページは母へ・・

「うしろに何かみえてますが~あのこは出てこない~」

姉プチ5月号に載っています

 

私は思いを作品に込められる。

ありがたい と、この時思いました。