コアを秘めて 02 | 15でオカマ オカマで女優

15でオカマ オカマで女優

ドラマチックに咲いてほしい性転換後

再三のお願いに、仕方なくとうとう女傑にこのblogを教えた。

アドレスを教えてしばらくたって返ってきた彼女のメールには
他愛ない文章にまみれてこうあった。
(この間にこのblogを読んだらしい)

[てかブログちょっと読んだけど、なんていうか苦労しとらんわけないとは思っとったけど、ちょっと想像以上だった。ごめん。]


*

私にはこんな思い出がある。


[小島さん]という名前の、どちらかと言うとあまり友達の多くない女の子がいて、
たまに彼女とは私の帰り道とが一緒で、共に帰ることがあった。

そのとき、いつも小島さんは自分の家の話しをするのだった。

早い話、お母さんがシングルマザーだという話なんだけど、
だから大変だ、とかそういう単調なものではなく、
離婚までのいきさつをこと細やかに話し、クライマックスに流血シーンを持ってきたのだった。
彼女はその話をするとき淡々としていて、まるではじめから脳がそうプログラミングされてる独白のように喋った。

私はその話を聞きながら、ドン引きしながらも
『ドン引きしてる場合じゃない!彼女を慰めなくちゃ!』と思い、
素直に、
「大変だね」
「だからあなたはこんなに真面目なんだね」

と私なりに慰めた。

電車を降りたあとも、彼女の家系の事情は、
街の排気ガスに負かれる私の中にこだましていた。



ところが、
これはあとから女傑から聞いたのだが、
小島さんは誰かと話す度に、この流血話をするらしいのだ。

確かに私もまだあまり仲良くないのにこの話をされた。

これにはさすがにそのとき、
私もちょっと胸につっかかるようないぶかしさを感じた。
『そんな惨たらしい話をわざわざ心開いて私にしてくれたんだ』
と彼女の心を汲み取って慰めたつもりだった私がちょっと間抜けに思えた。


小島さんのその悪いクセには、女傑や女傑の友達たちのグループなどから疑問に思われ、
あわや糾弾事件にまで発展しかけた。
(けっきょく不発に終わったが)


*

今回、いままで私に
「お前は楽だ」
「お前は恵まれている」
と常々言っていた女傑が、
私のこのblogを見た途端、
[てかブログちょっと読んだけど、なんていうか苦労しとらんわけないとは思っとったけど、ちょっと想像以上だった。ごめん。]
と謝ったのは
まさにこの小島さんのやり方を私はしなかったからだと思う。


要するに人に愚痴を言わない、
自分の不幸を言わない。

となると、そんな風に大変な内面を見せてないと、人によっては
『あいつ、のんべんだらりとしやがって』
と思われるかもしれない。
もちろん分かる人には話さなくても事情を分かってくれるが、だからといって無下に自分の不幸を話す必要はない。


まして小島さんのようにまだそこまで仲良くなってないような友達に、
反応に困るようなことを言うのはやっぱりルール違反だと思う。


人の辛い気持ちを推すのは大切なことだ。

同時にそんな倫理をもっている人は素敵なことだと思うし、
人としての基本だとも思う。

だからこそ、自分から‘自分は不幸だ’とか‘ここが不遇なんだ’とか言うものではないと私は思う。

そうやって言ったときに、
他人の不幸なんてどうでもいい人には何とも思われないけど、
他人の不幸を気にする人だったら、そういう人だけが心労になってしまう。

つまり、優しい人だけが損をするのだ。


だから私は不幸を人には話さない。

同時に、他人に対して『恵まれているなぁ』とはあまり思いたくない。
またとりわけ私生活を知ってる家族以外の人には『怠惰』を攻めたくない。


*


私が通っていた中学校は進学校なので、ハッとするほどお金持ちの人が何人いる。

俗に恵まれている・・・といえば大抵は家柄と容姿を指すであろう。
その二つを備えた女の子は何人もいた。


中学校のころは私も本気で思っていた。
「この人いいなぁ。恵まれているなぁ。この人になりたい。」

その人を語ると長くなるけど、
彼女と仲良くなるにつれて、彼女の家がいかに厳しいかを知った。

その時、私は表面だけを見て、人の置かれた環境を判断するのは辞めようと思ったのだ。

人間の置かれた環境は複雑な事情が交錯して毎日となっているので、
単純比較の恵まれているかいないは至極不毛なことだ。


*

大津事件に思う。
周りを気使わせたくないためにいじめを黙秘して、自ら命を絶った被害者が不憫で仕方ない。

優しい人間だけが損をして命を絶つなんて可哀相だよね。