今日はちょっと暗い話です。

















最近かいくんのお祝いごとなどの関係で、外に出たり、家に人をお招きするようになりました。

すると親戚や知人の、おもに年配の方から
「かいちゃん、無事に産まれてよかったね。もう〇〇ちゃん(ぴよちゃん)のことは忘れなくちゃね」
「今いる命を大事にしなさい。〇〇くんのことはそろそろ忘れなさい」
「いつまでも〇〇くんのことを引きずってたらだめよ。かいくんを可愛がってあげなきゃ、〇〇くんにヤキモチ妬いちゃうよ」
など、言われることがあります。

言っている本人は励ましのつもりでしょうから「はい」「そうですね」と笑って答えています。


でも内心では、

「あなたが赤ちゃんを亡くしたとして、次の子を授かったら、上の子をなかったことにできるんですか?」

と思っています。


まさかそんなはずないと思います。
自分の血を分けてお腹の中で大切に育ててきた赤ちゃんを亡くしたことを忘れられる人なんていないんじゃないでしょうか。

時間が経過したり、周囲の人から慰められたりすることで悲しみが少しずつ癒えることはあります。
だけど完全に「忘れる」なんてできるはずないです。
少なくとも私は。


それとも死産だったからそんなふうに言われるのかな?
生きて産まれてきてから亡くなる、戸籍に載る子だったら「忘れろ」なんて言われなかったのかな。
ぴよちゃんはお腹の中で死んでしまって、戸籍にも載っていない、存在しないとされている子なので、簡単に「忘れなさい」なんて言葉が出るのかもしれないですね。


難しいかもしれませんが死産でも戸籍に残してあげたいとずっと思っていました。
「戸籍に載っていない=存在しない」というような扱われ方をするのはあまりにも悲しいので…。
せめて、この世界にこの子は確かに存在したんだよ、という証拠を残させてほしいです。

特にぴよちゃんは写真がないので強くそう思います。
母子手帳にスタンプした手形と足型はありますが、それ以外には何も無くて…。





と、ここまで書いていて思いました。
私はぴよちゃんを忘れてしまうのが怖いのかもしれないです。

どんなふうに産まれてきたのか、どんな顔をしていたのか、どんなにおいがしたのか、どんな手触りだったか。
今はまだ鮮明に思い出せます。

でもあと5年したら?
10年したら?

はっきりと思い出せなくなるかもしれない。
記憶がぼやけて少しずつ風化してしまうかもしれない。

それが怖いからこそ「忘れなさい」という言葉に過剰な反応をしてしまうのかも。


いまだに後悔しています。
写真を残さなかったこと。


「忘れろ」と言われても、絶対に忘れたくない。
たくさんたくさん思い出してお仏壇に話しかけます。
ブログを読み返して当時の記憶を追体験します。
ぴよちゃんベアを抱っこして、あの体を抱えた時の軽すぎる感触だけでも覚えていたいです。


いつまでもぴよちゃんのことを覚えていられますように。