好きな戦国武将① | 宮前達智の鈍行列車

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そんな、何でもなく、なんでもない事のブログです。

はい!どうも、宮前です。


タイトル通り好きな戦国武将をかきたいと思いますが…変に戦国武将好きだと言うと「この!にわかが!」と言われそうで怖いのですが!

まぁ好きな者を、好きですと、尊敬してますと書くだけなので許して下さいませ。


先に謝っておきまして…


戦国武将ですよ。


まずそうなると、戦国時代とは、どこからどこまでを指すのかと、そう言う話になります。

戦国時代の開始としましては、1467年の応仁の乱、もしくは1493年の明応の政変を始まりとされています。

今の教科書は分かりませんが、自分が勉強していた時は、「1467年 応仁の乱」が戦国時代の始まりと教わりました。
けれども、最近では「1493年 明応の政変」が本当の戦国時代の始まりと有力視されています。
自分も根拠も無く勝手に、後者の「1493年 明応の政変」が始まりだと思っています。



終わりとしては、こちらも諸説あり、織田信長が足利義昭を奉じ上洛、入京し、天下人への足掛かりとした1576年
また、豊臣秀吉が後北条氏を制圧し天下統一を成し遂げた1590年、または、関ヶ原の戦い、大坂夏の陣とする説もあります。

恐れながら自分的には、豊臣秀吉が後北条氏を制圧した1590年に戦国時代から脱したと思っております。



なんて、昔の話をしたりしてますが!


本題の好きな戦国武将ですが…



「藤堂 高虎」


あまり聞き覚えある方はいらっしゃらないと思います。

戦国武将好きで、まぁまぁ知り出すぐらいだと思いますが…



なぜこの方が好きか!




名言がございます。






「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」


それともう一つ。



豊臣秀吉死後、豊臣秀吉恩顧の大名であった高虎ですが、徳川家康に「自分を家臣と思ってお使い下さい」と、露骨に擦り寄りました。他の諸大名は高虎を咎めましたが、それに対し高虎は「己の立場を明確にできない者こそ、いざというときに一番頼りにならない」と言ったそうです。


こういう移り身の早さと言うのは、戦国時代の武将には必須でした。

ただ、勘違いしてはいけないのは、主君を変えるたびに、高虎は貰える石高が上がり出世しています。そして、仕えた主君には最後まで忠誠を誓っていました。


よく、「武士は二君にまみえず」などや「武士は死ぬことと見つけたり」などとありますが、あれは平和になった江戸時代などに言われたことなので、戦国時代の武士たちは決してその様なことを言ってなかったと思います。





藤堂高虎さんの話に戻りまして


自分の価値にみあった働き先に行き、そこで毎回出世して行く…

今の世の中で頑張って転職してる人にとっては、崇めたて祀らなければ行けない様な人。
因みに、墓所など…墓は東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院。また、三重県津市の高山神社に祀られている。屋敷は東京都千代田区神田和泉町他にあった(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。
転職する方は、藤堂高虎を調べて、お参りしてみてはいかがでしょう。


そして!何より!良いのが!





築城の名手!!!



石垣を高く積み上げる様は圧巻だとか…


だとか…


観てないんですよ…すみません…


写真では有るんですが…

不甲斐ないです…


ですが!


加藤清正公の方が石垣は好きなんです!反りがいい!


なんてね!


あぁ石垣…石垣の写真集ないかなぁ~







話がそれましたが、藤堂高虎公を尊敬し、今後も調べて行くことをここに誓います。


伊賀上野城にも行きたいです!!


ウオッシャーイ!!



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