なかなか更新できなくてご愛読いただいている皆様にはご迷惑をかけます。
うかつにも風邪を引いてしまい、やっと向き合える状態まで回復しました。

こんな私なので、こうゆう事が今後もあると思いますが
応援の程よろしくお願いいたします。

第18回 椿が落ち字幕で終わる桜田門外の回(タイトル自前で付けました)は、
内容的に大事件であるため、忘れない程度の頃に先延ばしにさせてもらいますね。

本来私は人物解析が苦手ですが、今回はあえて「松浦亀太郎(松浦松洞)」と向き合おうと思います。

この方、ドラマでも絵の好きな魚屋さんです。
武家出身ではなく、ちょっとお金に不自由している「魚屋さん」。
ここでアレ?と思った方みえませんか。

江戸時代で魚屋さんに名字なんてないでしょ?
なのに「松浦」の姓がある。不思議でしょ??

江戸時代後期になると、
裕福な商人や農民に貧困のため武士の株(名跡)を売る武士は結構いて
それで姓を買い名乗った農民、商人もいましたが
「魚屋の亀ちゃん」のおうちには、そんな余裕はありません。

ということは、だたの「魚屋」ではないということです。
実は村塾に入る前、
亀ちゃんは才能を見出され毛利家の家臣の家臣になっていたのです。
だから「魚屋もやってる武士の松浦亀太郎」なんですよ^^
亀太郎も通称で本名(諱)は松浦温古。
一般的には松浦松洞(しょうどう)と呼ばれていました。

ここは余談ですが、
「よ、松洞、生きのいい魚入ってるかい?」っていうよりも
「よ、亀ちゃん、生きのいい魚入ってるかい?」の方がしっくりきますよね(笑)
ということで本文の前半では「亀太郎」を
上洛(京都に行くこと)以降は武士らしく「松洞」を使わせてもらいます。

その当時、絵描きさんというのは人物画や風景画を描くことよりも
漢詩に書いてある風景を想像して描くことが多かったそうです。

そこで、たまたま村塾の近くに住んでいたため塾が出来ると知り
漢詩を習いたいと思って村塾メンバーに入ったのです。

彼の功績といえば何といっても
松陰の肖像画を描いたことです。

私めちゃめちゃ画伯(?)なので、絵心のある方の気持ちは分からないのですが
私も素人なりにこうやって人物と向き合う作業をしているので
松陰先生と向き合っていた亀太郎と感覚がにてると思うのですが・・・ちがうかな?

例えば同じと仮定しましょう。
おもいっきり「真剣勝負」なんですよ。
がっつり集中して終わったらグッタリするほどの勝負をするわけです。
特にリスペクトしてる人を描く作業になれば
力が入るあまり書き損じてしまいそうになったり
かと思えば、
手が勝手に動き始めて止まらない状態に入ったり
時間を忘れ時計を見てビックリしたりしたりして・・・。
私がその程度なんですから

亀太郎の真剣勝負の相手は、ほぼ帰ってこない人とわかっている自分にとって大事な大事な大恩師。
神経が高揚しすぎて
筆が振るえそうになったり
涙がこぼれそうになったり
それでも必死に冷静になろうと紙に向かう・・・
あふれんばかりの自分の想い、
そして村塾メンバーたち全員の想いのたけを思いっきり筆に込めたに違いありません。

有名なあの吉田松陰の肖像画を今拝めるのは
彼が一心不乱で書いてくれたおかげなのです。
上記の想いを持った眼で改めてWebで「松陰 肖像画」の画像でググってみてみると
感慨深いものを感じるし、静の中に動き・・・いや叫びが聴こえてきそうです。

そして‘松洞‘は、松陰の死後
久坂たちと一緒に京へ上ります。
目的は長井雅楽の暗殺。
若い村塾メンバーたちは長井の「航海遠略策」(世界に出て国力をつけた上で、諸外国と対抗しようという案←結局この案が明治新政府の指針となっているから皮肉です。)を許すことが出来なかった。
松陰先生が攘夷論を唱えているのに何が諸外国と仲良くしてから・・・ふざけるな!!

松陰先生の死を超えるという事は、時に過激な考えを生む事もある。
松陰先生の死を超えるという事は、まだまだ世間を知らない若者には重たいものもある。
更に、その死が悲惨であればあるほどに
無念であればあるほどに燃え方は比例して大火事を招くこともある。

そして京についた村塾メンバーたちは考えた。
京へ上ったという安堵感は彼らに冷静さを与えたのだ。
この暗殺計画自体が無謀では、ないのだろうか?と。

しかし、松洞の心にともった火は皆の冷静さと反比例し
更に火が燃えたぎってしまう。
お前らは、松陰先生の何が分かる、その意思を継がないとはなんたることだ!
他の村塾メンバーは松洞に翻意を促すが、その声は届かなかった。
肖像画を描いたからこそ想える情熱なのだと私は理解するが違うだろうか?

京都の東山出口辺りに粟田山という山があるそうだ。
東山隧道というトンネルを超えると将軍塚があり
粟田山は、そのあたりとだ言う。
私も幾度となくその道を通ったことがあるから知っているのだが
夜は少々薄気味悪さを感じる暗い場所。
唯一の救いは、そこから見える夜景の美しさだ。

松洞は、そこで自害した。
その夜は晴れていたのかを私は知りたい。
いや、晴れていたという事にしておこう。
(なぜ粟田山なのかは、ここでは長くなるので説明を控えます。
もし知りたいというご意見が多い場合のみ後日UPします。)

松浦松洞最期の言葉。
「一事寸功の見るべきものなく
いたずらに時の推移するを想い
何の面目か故郷の人に合わん」

(あくまでも私の解釈)
「もしかしたら成功するかもしれないのにやらないとはなんだ。
この想いを抱えたまま無駄に生きていようとは思わない。
家をすて母をすててまで立てた想いを実行しずに
里に帰ることは私には出来かねる!」

松浦松洞 享年27歳(数えなので現代であれば25歳)。
村塾メンバー最初の憤死である。




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