♪男なら お槍かついで
♪お仲間となって ついて行きたや 下の関
♪女ながらも 武士の妻
♪まさかの時には しめたすき
♪鏡じゃないかな オオシャリシャリ(おっしゃるとおり)

上の歌詞は、紀行の部分でも放映された「男なら」の一番です。
この歌を歌いながら、綺麗な着物をきて土塁をつくる絵をみて 
「さすがは長州、やるときはやるもんだなあ!」と感心したものです。

さて、この女台場つくりに至る理由ですが・・・

5月10日の攘夷決行の後
外国から返り討ちをうけ
台場(戦闘拠点)をとられ
付近の民家まで損害をこおむった下関。

これをきっかけに萩の住民の間にも
自らの手で城下をまもろうとする機運が高まり
外国船からの襲撃に備えるため
萩藩は日本海に面した菊が浜に
土塁を建造するよう住民に命じたこと
から始まります。

これは、あくまでも藩が住民に命じたことなんですよ。
女が率先して始めたことではありません。

ちょっと話題から外れるかもしれませんが
しばしおつきあいを。

「奥様」と言う呼び方があります。
大名とか身分の高い武士のお嫁さんというのは
あまり表に出ることが無くて
殆ど家の入り口から奥の場所にいた。
そこから前述した「奥様」という呼び名がついたわけです。
やがて時代が安定し、町人に力が付いたころには
普通の武家や豪商でも使われるようになり
現在は一般的に他人の妻を指す場合の尊敬語として使われています。

ここから
「身分がそこそこの女性が奥からでることは、相当の場合のみであり
ちょくちょく表に出られては「お家の恥」につながる」
ことがわかります。
現代のフェミニストさんからすると怒られそうな記述ですが
実際、女性の社会進出などまだまだ出来てませんし
日本では、それよりも「内助の功」を重んじますよね。
(私は自営業であるためか、「内助の功」を選びます。
「立てる人を立てた方が何かと都合よく運ぶことが多い」という‘したたかな気持ち‘が本音です笑)

ここから萩では
女を「奥から出す」ことを許さなければならないくらい
相当切羽つまっていたことが分かります。


使える年頃の男どもは全て下関で頑張ってるし
萩に残ってる人間は、居残り組の役人、高齢者、子供、そして女しかいない。
しかし早急に台場つくりをしなければ
夷敵はすぐにやってくるかもしれない。という恐怖心があります。

萩の地理を少しだけ説明すると日本海にバッチシ面しているため
ちょくちょく異国船を見れる環境があり
江戸時代の大気が良くて建築物も低い状態ならば
朝鮮半島が、かすかにみえてもおかしくはない場所です。
異国に対する恐怖は我々が考え付かないものがあったと思います。
(PCかアメブロどちらかの調子が悪くて画面コピーが出来なくてすいませんが
こちら をご参照ください。)

ですから考えるに
まず身分がある程度高い武家の妻が見かねて手伝いはじめ
後から萩の女性たちが続いたと考えるのが妥当かと思われます。

武家の妻たる者、
一度始めたらそんじょそこらのチャラ男より格段に強いですよ!!
相当に頑張ったのだと思います。
ですから「男なら」の歌詞が生れ作業中に歌われ
今でも萩のお祭りで‘よさこい風‘にアレンジされ踊られているようです。

現存されている女台場の大きさは高さ3M、幅12M。
写真で見てみると(写真をおかりできないので女台場で検索してください。)
堂々としており女が働いたと思えないほど立派なものです。

ところで、「男なら」には二番があります。

♪男なら 三千世界のカラスを死なす
♪主と朝寝がしてみたい
♪酔えば美人のひざまくら
♪醒めりゃ天下を手で握り
♪咲かす長州 さくらの花
♪高杉晋作さんは 男の男よ
♪えらいじゃないかな オオシャリシャーリ(おっしゃるとおり)

高杉、エライ出世ですねえ。
最初の部分は高杉が作った‘うた‘(←都都逸かも?教えてください。)
「三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい」からとってますしね。
うわさで女がこの歌を歌いながら台場を作ってるらしいと下関の男たちにも聞こえたと思いますよ。
奇兵隊を作った高杉は当然勢いに乗ります。
しかし・・・・
5月10日の攘夷決行を最終的に、
大損害で終わらせてしまった久坂にも当然聞こえますよね・・・・・
久坂・・・・・面目が・・・・な・・・・・・・い・・・・・・・・><

京へ久坂を行かせたのは
小攘夷の失敗だけが原因ではありませんが
相当つらかったことであったと思います。

京へ上る決意をした久坂。
いよいよ自身の死までカウントダウンに入ります・・・・

お帰りの際には、コチラもクリックしていってくださいませ。⇒