さて昨日の記事の続きです。
最近、私のTL上で大輔さんファンの反響が一番多かった記事と言えばこちらで、このブログでも1度ご紹介しました。
“表現力ばかりに注目が集まりがちな「かなだい」だが、実は確かな技術力に下支えされている。”
中でも皆さんはこの一文に反応されたようです。
つまりフィギュアスケートを報じるマスコミにおいては「技術力」の対義語が「表現力」のように記されてしまうことが多かったのかもしれませんね。「色気」とか「妖艶」とかと同じく髙橋大輔選手の形容詞として「表現力」を多用されることに違和感を覚えていらっしゃったのかも。
確かな技術力あっての表現力だとちゃんと表記してくれたことでこちらの記事はファンから高い評価を得ていました。
私自身は言葉に対しては割と無神経な方でして、何と言われようと大ちゃんは大ちゃんだしあまり気に留めてなかったのですが、今回「表現力」について自分なりの考えを書いておきたくなったきっかけは2021-2022シーズンのISUのルール改正案でした。
ISUがフィギュアスケートの基準項目を5つから3つに減らす意向を表明 (Match TV)
国際スケート連盟(ISU)は、フィギュアスケートのクライテリア・コンポーネントの数を5つから3つに減らす方針です。
これはMatch TVが報じている。
現在、スケーターの構成要素は、「スケーティングスキル」、「繋ぎ」、「パフォーマンス」、「構成」、「音楽の解釈」だが
ロシア人審判員のアラ・シェホフツォワ氏が率いる組織のワーキンググループは、「スケートの熟練度」、「パフォーマンス」、「構成」の3つの基準だけを残すことを計画しています。
この提案は、2022年6月6日~10日にタイで開催されるISU大会で検討されます。
いやあ、さすがにこれは無いわあ、おそらく却下されるとは思います。(私が決めるわけではありませんが)
毎年のように突拍子もない改正案が出てきますが、ここまで今年の案と真逆なのはあっけにとられてしまいます。だって今年は確かTRを重んじて技と技のつなぎをもっと複雑にするべきとかいう改定案が出たんですよ。それがいきなり全部なくしてもOKとか冗談でしょ?
ただし今までPCS採点が額面通りに運用されていたのかと言えば怪しかったのも確か。
明らかに技術が劣る若手がスケーティングに定評あるベテラン選手とほとんど変わらぬSSとして評価されたり、どう見たって音楽がBGM化してるのに解釈が高得点だったり、素人目にはめちゃ体力使いそうな凝ったステップと、どこがステップだったのかわからないような演技のPCSがほぼ同じ得点で戸惑うこともあります。
なにより5つのコンポーネンツにはそれぞれ点差があってしかるべきなのに数字がほぼ横並びというのも納得いかなかったりします。
ちゃんと採点できないんだったらいっそ簡素化してしまえというのは気持ちとして分からないでもありません。でも今まではまっとうな採点じゃなかったなんてISUが率先して認めてるわけじゃないでしょう?
技と技のつなぎ、音楽との調和 これらはさして点数になるわけじゃなくてもこれは魅力的なプログラムのために欠かせない要素だと考え、スケーターは慎重に音楽を選び、振付師は創意工夫をしてきました。それこそ結果とか順位は関係なく観客の心に響く演技の源です。
そうでなかったら誰がフィギュアスケートなんてするものですか。そりゃジャンプを追求する選手もいますけど少なくとも音楽が嫌いなんてスケーターは一人もいないはず。曲を感じて滑るのが楽しいからこそフィギュアスケートやってるんじゃありませんか?
たとえ廃案になったとしても、こういう提案を話し合いの場に持ち出した時点でいったい何考えてるの?って不信感が募ります。
そもそもこの案がロシアから出てきたことが情けない。身体芸術の粋といえばやはりロシアバレエです。音楽と肉体が結びついたとき、音は初めて視覚化されるんです。その芸術を何より重んじ、バレエダンサーを国家公務員として遇してきたロシアがなぜこんな提案を?
これはひとえに表現に劣るまだ幼い選手が技術でベテラン勢を凌駕するための案だと勘ぐられても仕方ありません。
そんなことしなくたって現行ルールで十分勝利してるんですけどね。ただでさえ怪我や摂食障害が選手を蝕んでいるのにこれ以上低年齢化を加速したいんでしょうか?いったいなにが真意がわかりません。
一方でシニアの年齢を引き上げる案も出てますし、SPとFSを同じ3分30秒にする案とか、PCSの得点配分をSPで40%に抑え、FSで60%にする案とか、テクニカルとコンポーネンツのジャッジを分ける案とかあります。
会議はどうぞご自由にですが、滑るのは選手。そして観客の事をどうかお忘れなくと言いたいですね。そもそも毎年こんなに弄り回して何がどう良くなったのか?私なぞにはちっともわかりません。ちっとは落ち着け!と言いたくもなります。
そんなわけで下手すると風前の灯火になるかもしれないフィギュアスケートにおける「表現力」ですから、一ファンとしてはその重要性に触れておきたくなったんです。
表現とは技術
私がこの言葉を知ったのはタラソワコーチがきっかけです。彼女がロシアで浅田真央さんにそう伝えているのだとテレビで報じていました。
真央さんは幼いころからバレエを習っていましたが、ロシアでもタラソワコーチの元でバレエレッスンを取り入れてました。
確かな技術力なしには人に表現を伝えることはできない。バーレッスンに汗を流す真央さんの映像でその言葉を聞いたときすごく納得がいったのをよく覚えています。
しかしその逆はありません。いくら技術が優れていたところで表現とは言えません。いやそれも確かに一つの表現ではあるかもしれないけれど、いわゆる「表現力」とは違うものです。
幼い子供や子猫が無心に遊んでいる様子を見て心安らぎ、まるで春の陽だまりのようだと感じることはあります。でも彼らは春の表現をしてるわけじゃありません。
同じくひたすらに一生懸命演技するスケーターを見て、目がくらむような青春を感じてもそれは表現力ゆえではありません。
それは花鳥風月を愛でるのと同じです。人は他者の在り様に心動かされますが、そこから受けとる感情は決して発信者の作為に由らないのです。
表現とは他者を意識し、感情を伝達しようとする意思です。スケーターに技術があっても意思がなければ観てるほうも勝手にその有様に感嘆するだけです。
桜や紅葉が散る様に美しさを感じて、時に涙すら流れますがそれと芸術とは全く異なります。
「フィギュアスケート2021ファンブック」の記事、若きスケーターへの手紙の中で町田樹さんは「技術」と「知的感性」を磨くことで表現力が養えると説いています。
町田さんらしくジャンプやスピンなどのエレメンツを「言語」に喩えています。語彙豊富つまり繰り出せる技が多いほど巧みな表現ができるというわけです。しかしそれらを司るには知的感性が必要。フィギュアにおいては特に音楽の探究が大切で、白鳥の湖を例にあげて使用する音楽の背景であったり作曲家の意図を理解しようと努めるべきだとおっしゃってます。
たしかに若いスケーターが知識を手掛かりに表現を言語化して理解しようとするのは大切なことですね。
しかし大輔さんのそれは言外の域、もっとダイレクトに人の感性に訴えるものです。
目線、首の傾き、肩、腕、指、頭からつま先まで具体的に何をどう動かせば人の心にどう伝わるか?を計算し尽くして表現しているように思えます。
が、それだけではないのです。演じているのではなく成りきる。つまり佇まいの域にまで達しているのです。
佇まいとはキャラクターの年齢や経験、性格が滲み出るもの、存在感です。プログラムによって全く別人の佇まいを演じられるほどの表現力はスケートには求められてません。複雑な感情や込み入った人間関係をたった数分で演じられるわけがないからです。
ですが大輔さんはたくさんのショーでそれをこなしてきました。しかもごく自然に。
リンクに立ちさえすれば無意識にあり様と佇まいの間を往来できるんじゃないかと思うくらい演じようとする作為を感じさせません。無理なくすっと彼の創る世界に案内されてしまう。
LUXEではそういう至高の体験を何度もさせていただきました。ナルシスではゾッとするような奈落の孤独を味わいましたし、黒い鷲は神秘な鳥が本当に舞い降りてきたようでした。
ラストのフェニックスの神々しさ。足元にぼっと火が灯ったとき、彼の全身から天に向かって気が放たれるのが肉眼でも見えました。生きてる人間が演じてるようには到底思えないくらいのヒーロー感。
それらを「表現力」の一言で括れるわけがありません。「あふれる色気はどうやって?」「あふれる色気ってなんですかね?」と刑事君が質問するのも無理からぬことです。
大輔さんは具体的な言葉では答えませんでしたが、いろいろなものを見て考えて、自分で試してみる事の大切さは教えてくれてますね。
彼の場合はまず視覚で捉えたものを体に落とし込む能力が天才的に優れているんだろうと思います。それは間違いなく表現力の元になってますよね。でも模倣するだけじゃなくて、そこからさらに探究していくところが凄いのです。自分の表現に決して満足はしない。
そう思うとやっぱりアイスダンスって大輔さんの感性に向いてるんだろうなと思われます。技術上達が表現上達へのガイドになってくれるからです。
そのあたりシングルだとどうしても相反する部分があって、ジャンプが得点の大部分を占めてしまいますからね。後半ジャンプへの体力温存のために何かを犠牲にせざるを得ない。
だからと言って音楽性抜きにしたら、それはもうフィギュアスケートじゃないって思うんですけどねえ。
まあ、仮にこの案が採用されてもスケーターがただのジャンプロボットになってしまうことはないでしょう。音楽を聴いたら人は自然に踊りたくなるものですからね。そもそもダンスとは神へ捧げるものでした。表現する、つまり他者に捧げる精神を失い、成績のためにのみに滑るのであれば見る側にとってはそれが人である必要すらないのです。
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