7月13日に行われた彩ふ読書会の哲学カフェ研究会開催の【あきらめる】をテーマにした哲学カフェのレポの後編ですニコニコ

↓前編はこちら↓
以下、彩ふ読書会サポーターのひじきさんのブログの後編からの引用です。
【後編】


3-1.「あきらめる」をポジティブに捉え直す

 今回の哲学カフェは次のような発言から始まった。「あきらめるというのは、ありのままの現状を受け容れることだと思います。ですから決して悪いことではないのに、何か良くないことのように言われるのは、あきらめずに成功した時のリターンが大きいからでしょうか」この発言には、「あきらめる」のは良くないことだと捉えられがちなことへの戸惑いが表れている。そのことを思い返すと、「あきらめる」は悪い事なのかという疑問は、今回の哲学カフェ全体を貫く大きなテーマだったようにも思う。

また、仕事柄会社の上役の話を聞くことが多いという別の参加者からは、次のような話の紹介があった。「エグゼクティブの人は意外とあきらめが早いんですよね。それは自分のことをよくわかっているからなんです。できる人ほど自分の限界をわかっているから、方向転換が早いんですね」この話はとても印象深く、あきらめが良い方が、むしろやりたいこと・やるべきことが沢山出来ていいじゃないかという気が俄然湧き起こってきた。

 このように「あきらめる」を肯定的に捉える意見に幾つか触れているうち、僕はあることに気付いた。それは、「あきらめる」を肯定的に捉えている人は、自分自身に対する理解度が高いということである。自分に必要なものは何か、自分に向いていること・できることは何か、自分のやりたいことは何か——それらをよくわかっている人は、「あきらめる」ことに迷いがない。「あきらめる」ことと「自分を知る」ことには、深い関わりがあるようだ。

そこまで考えた時、さらに「あ!」と気付いたことがある。「あきらめる」を漢字で書く時、僕らは普段「諦める」と書く。しかし、もう1つ、「明らめる」という書き方もあるのである。気付くや否や調べてみると、「諦める」の説明には「断念する」と書かれているのに対し、「明らめる」の説明には「事情・理由をはっきり見定める」とあった。「あきらめる」には、物事を見定めるという意味もある。そう考えると、それは決して悪い事ではないように思えた。


3-2.なぜ、「あきらめる」がネガティブな意味を持つのか?

 ▶①「あきらめる」には、「明らめる=事情・理由をはっきり見定める」という意味もある。自分や周りのことに対する理解を深め、適切な判断を下すことが「あきらめる」ということであれば、それはとてもポジティブなことだと思う。

 ▶②「あきらめる」ことに対するネガティブな印象は、「あきらめるアイツは根性なしだ」というレッテル貼りや、「あきらめたらそこから何も得られなくなる」という考えから来ている。前者に対しては、「あきらめる」は選択の問題であるという認識を強く持つことが有効であり、後者に対しては、あきらめたあとに新しいことを始めればまた得られるものがあるという反論が有効である。

4.印象深い話~「できないことはあきらめる」からどう脱却するか~

この話を聞いた時、僕は自分に一番足りないものが何だったのかわかったように思った。つまり、僕に足りなかったのは、〈広い視点でみれば、自分の人生なんてそこまで重要じゃない〉という真っ当な現状認識だったのである。〈できる自分〉に憧れ続ける僕は、自分は一角の人間になるのだと思い続けていた(と言っておきながら、どの分野でどんな一角の人間になるのかということが全く分かっていないのだけれど)。そんな僕にとって、自分という存在はあまりにも大きく、かつ絶対的なものだった。そしてそれ故に、いまの自分の手に余ることを却って斥けるといういびつなことを繰り返していたのだった。

 どうすれば〈自分なんて大したものじゃない〉という認識をそっくりそのまま引き受けられるだろう。そんなことをぼんやりと考えた。もとより、それは拙速にやってはならないことだと思う。先の話をした方は、〈自分なんて大したことない〉という認識をいかにも軽やかに、まっすぐに持ち得ているように僕には見えた。しかし、僕がいますぐ直ちに同じ認識に辿り着こうとしたところで、それは捻れた卑下にしかならないのがオチである。まず広い視点をもつこと、そのうえで自分のやりたいことを見定めること、そういったことを地道にやっていくより他に方法はないように思う。

いずれにせよ、哲学カフェの経験として重要なことは、他の人との比較を通して自分の現状に対する理解が深まったことであり、また、自分がこの先どんな考え方を範とすればいいかがわかったことである。己の小ささに対する真っ当な認識、それを根詰めず緩やかに獲得していった時、また新たなものが見えると、僕は思う。


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前編から続いて引用させていただいたお二人の記事は、私が印象に残ったものを抜粋しているものなので、興味を持たれた方は、リンクから原文を読んでいただきたいと思いますキラキラキラキラ


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私が今回の【あきらめる】のテーマの哲学カフェに参加したかったのは、私自身が自分の能力、家庭の事情、体調面、金銭面、さまざまな理由からさまざまなことに挑戦しては自分と向き合わざるを得なくなり、そのなかであきらめてきたこと、学んだことがたくさんあるからです。

前編に書いた通り、【あきらめる】について、以前に記事にもしています。


自身は、【あきらめる】ことをネガティヴにとってはいません。
自分自身、そのとき忸怩たる思いであきらめることもありました。

でもその経験は今の自分に繋がっていると思っています。

つまるところ、あきらめたことをネガティヴにとるかポジティブにとるかは、「今、どう生きているか」次第なのかな、と思います。

「自分がどうありたいかという軸」を、あきらめるという選択のなかで明らかにすることで、余計なものを手放していき、私自身は楽になりました。

こだわっていることが、実は自分にとってたいして大切なことではなかったと気づくこともありました。

あきらめるということは、自分で自分の人生を選択すること、なのかな、と…。

もちろん病気など、どうしようもない事情であきらめざるを得ない状況になることもあると思います。

そうしたのっぴきならぬ事情を除いて考えた場合に、「あきらめさせられた」ためにあきらめた場合、あきらめなくなかったらあきらめずに済む方法を必死に探したり、時間をおいて再チャレンジをしたり、という方法もあるのかな、と思うのです。

それをしなかったということは、「自分であきらめる」という選択をしたことかな、と…。
(キツい意見かもしれませんが、あきらめたことに関して外部に理由を求めるのは、「あきらめた自分に対する言い訳」なのかな、と思ったりします。)

そして、あきらめることで見えてくることもあるし、あきらめた先に新しい自分が待っていたりするので、あきらめるのも悪くない、と思いますニコニコ


本本本本本
レポを読むだけで楽しい哲学カフェでしたコーヒー
次回は参加したいと思いますキラキラ


もう少しゆっくりして、家事を頑張りたいと思います〜爆笑
今日は何記事か更新するかもしれません。

それでは、またキラキラ
良い一日をお過ごしくださいニコニコ