大東亜戦争を戦った日本人(壱) | 【生きてるだけで丸儲け】

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          ー 教育参考館と私 ー

          江田島町教育委員会委員長  岡村 清三


 私はも七十三歳になりますが、皆さんご存じない昔の具体的な事を知っておりますので、こういうことがあったということを伝えてみたいと思います。また、私はこうして元気でおりますけれども、私の同僚たち、先輩、部下たちが、今なお海の底に骸(むくろ)が転がっていると思うと、負い目がありますし、彼らが言いたいことを、私が言わせて頂きたいと思います。その話の中で皆さんの参考になる点があったら幸いです。


                海軍兵学校について

 まづ最初に、海軍兵学校がどういう学校だったかということを、良く若い人に聞かれるのですが、その時に言うことを、五つ程、取り上げてみたいと思うのです。
 一つは、昭和七年にひとりの英国の青年が英語教師として江田島に赴任しております。名前はセシル・ブロックという方であります。非常に江田島が気に入って『英人の見た海軍兵学校』という本を発行しております。その一節をちょっと思い出してみると、「私が江田島に赴任した時に、全校生徒職員が堵列(とれつ)をして迎えてくれた。」堵列というのは、垣根のように並んでということです。「感激した。校長さんの部屋に入ったら、校長さんが若い私を非常に丁重に迎えて下さって、『あなたは明日から日本の若者に、英国紳士はいかにあるべきか。いかに振る舞うべきかを教えてやってくれ』とおっしゃって、私は英語を教えに来たのに、英語のことは一言もおっしゃらなかった。非常に感動した。こんな立派な学校は、当時英国にもなく世界中にもなかったと思う。」言葉は少し違うかもしれないが、そういうことを書いていますね。
 その次は、私より年が三歳ぐらい上で、兵学校を一番で出られた中村さんという、終戦後自衛隊の海上幕僚長になられ、今もお元気でよくここにお出でになる方がいます。その方の言葉に、「兵学校の評価については、人によりまちまちであろう。しかし、智・徳・体といった全人的教育において、この学校に勝る学校は当時もなく、今もない。この学校で学び得たことを生涯の幸せと思うのは、私一人だけではないであろう。」今の学校の教育は、殆ど知識偏重です。ところが、智・徳・体、全部バランスの取れた教育をしたのは、昔も今もないと言い切っておられるんです。




                東京空襲を最初に発見 

 兵学校はもう眼鏡を掛けたら受ける資格はない。私が海軍航海学校にいた時に、将校は全部二・〇以上です。私なんか、三・五ぐらい見えていた。(笑)
 実は私は東京で初めての昼間の空襲を発見しました。もし戦争に勝っておれば記録に残ったと思うのですが、四機のB29を百キロ手前で見つけました。地球が丸いから、海上では三十キロで見えなくなります。飛行機は高さ六千メーターで来た、こちらは明日来る可能性があるというので、七倍の双眼鏡を持って、横須賀の山へ上がって見ていた。
 見えたといっても飛行機は見えない、点が見えるだけです。「飛行機一機」と言ったら、海軍中佐が竹の棒を持って私の頭をカーンと叩いた。ヘルメットを被っているから、どうもありませんが、「勝手なことを言うな!、何も見やせん。」(笑)
 こうして、もう一遍見てたら、一つの点が三つになった。編隊です。「続いて二機、合計三機」と言ったら、「あれはカラスだ。」(笑)さらに見ていると、今度は五機になった。「続いて二機、合計五機」と言ったら、海軍中佐が「そうかもしれんのう」と言った。
 最初の一機が見えた時は、おそらく百キロ先です。日本内地では、空気が澄んでないから、そういう記録は日本にはないのだそうです。南方ではあります。今はこうして眼鏡を掛けているのは、白内障になって切ったからやむを得ず掛けていますが、七十三歳で、やっぱり、二・〇見えるのです。この間も、ちょっと右目がおかしいと言ったら、お医者さんから「見え過ぎる」と怒られました。「七十三にもなって、二・〇も見えるのはおりゃせん」と怒られたんですが(笑)、これも一つの病気かも知れません。




               「操艦技術抜群」

 私が任官した時の艦長が教えてくれたのです。海軍という所はいいところで、ペーパーテストだけでは採点しない。実地を五十点見るのです。「お前は、操艦技術抜群と書いている。」そのために、航海学校三番で卒業した。ところが一番から十四番まで全部、戦死して死んでいる。
 私が、どうして生き残ったかというと、操艦技術抜群で生き残ったのです。私は連合艦隊司令長官とかが船に乗るときに、チャージをする役目を仰せつかったのです。しかし、その頃、回天と呼ばれた人間魚雷の事故が多く、あれはちょっと上げ舵を取ると重さ八トンもある十五mもある巨体が、鯨のように飛び上がる。それを恐れてグッと下へ下げたら、グググと突っ込んでいく。「しまった!」と思っても、あれは弾ですから、突き当たるまで止まらないのです。訓練でも岩に当ったら即死です。泥へ突っ込んだらもう抜けませんから、すぐ貰ってる短刀か青酸カリで死ねと言われているのです。
 だから回天に一時間半ぐらい乗ったら体重が一貫目減った。一貫目というのは、三・七五キロです。海上自衛隊員私がいくら喋っても信用しない。しかし、数年前にテレビを見ておったら、鈴鹿サーキットで、「僕は一度レースに出たら、いつも体重が三キロから四キロ減ります」と言っていた。命かけたら同じですね。
 私が操艦技術抜群というので、下士官から操縦方法をちょっと二、三十分習って、いきなり回天を操縦してみた。豊後水道へ浮かんでる軍艦の底を通る。非常に微妙な操縦ですが、一遍も練習せんのに、私はスパーッと通ったのです。そしたら皆、拍手喝采ですね。さすが岡村だって、いい気になってやってたんですが、一度乗ったら一貫目体重が減るという訓練ですから、肋膜(ろくまく・胸膜炎)になったんです。それで、とうとう回天では御奉公できなかった。


                                         

                                          〈つづく〉