大東亜戦争を戦った日本人(弐) | 【生きてるだけで丸儲け】

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                教育参考館と私

 終戦になって江田島に帰ったら、それまでは農業をするなと言っておった父親が、「百姓をしよう」と言い出しました。父と一緒に農業をしていたのですが、その父も、三年後に脳溢血で亡くなり、翌年母親も亡くなりました。当時農地問題があって、私の父は江田島にたくさん土地を持っておったものですから、非常に苦労しました。でも四、五年のうちには、篤農家(とくのうか)として本にも出るようになり、よし、日本一の百姓になろうと思っておったところが、海上自衛隊から、参考館をつくってくれないかと言ってきた。
 術科学校の校長は、「私がやりたいが、転勤があるから、地元の海軍の人がやらんと駄目なんだ。一刻も早くやらんと資料がなくなるから頼む」と言うけど、防衛庁も海上自衛隊も認めてくれなかったんです。だから私は月給なしで、丸七年間、幽霊生活をしたんです。或る厚生大臣が江田島に来た時に陳情したら、防衛庁にやっと認められて、退職する時には事務官としては最高の地位でここを出ることが出来ました。自衛隊を辞める前に江田島の教育委員長をしたが、それからもう十六年経っておる。
 もう一つ、この江田島出身で昭和二年にこの兵学校を出た私の兄が、遠洋航海で英国に行った時の話をします。或る公園の中に入ったら、何十とあるベンチへ皆老人が座って日光浴をしている。邪魔してはいかんと思って、そっと通ろうとすると、側の老人が目を開けて、「君は中国人かね」と聞いたので、「いや、日本人だ」と言うところを、つい茶目っ気が出て、「ノー、江田島!」とこう言ったんです、ロンドンで。(笑)すると、たくさんのベンチの人から一斉に「オー、江田島!」と言って寄って来て、三十数名老人が、帽子を取って被ったり、腰の剣をいじったり、体を触っておったそうですが、とうとう日本流儀に言えば「ワッショイ、ワッショイ」近くのレストランへ行って、歓迎会が始まった(笑)、それが終わったら十数台のオープン・カーを集めて来て、パレードが始まった(笑)。そして私の兄貴を立たせて、「皆さん、江田島のお客さんですよ、拍手願います」と言ったら、あのロンドンの両側の道の人が足を止めて、笑顔と拍手をおくってきた。兄がよく、「江田島は日本より有名なんだからね」と言っておりました。
 それからもう一つ、井上成美(しげよし)さんという海軍大将が校長の頃に、終戦頃のことですが、日本中の学校で英語を止めたんです。敵の言葉なんか習う必要はないと言って、陸軍士官学校まで英語の勉強を止めたんです。そしたらこの井上校長が、「何を考えとる。それでは仕方がない。江田島では英語の時間を倍にしよう」とこう言っています。当時日本中から非難を受けました。でも、戦争が終わってだんだん皆本当のことが分かってきた。視野が広く、先がよく見えるんですね。人の上に立つ指揮者になる人は、視野が広くないと、いくら頭が良くても駄目ですね。



                今の人は心が貧しい

 私はこの頃、気になって仕方がないことが一つあるんです。参考館におりますと、大学の教授がお出でになる。古い文献を見て、「岡村さん、これ貸して貰えないか」と言うのです。で私は、私のものじゃないし、規則に則って、「すいません、貸し出しは禁止になっておるんですが」と言うと、今度は校長に言うのです。校長が私に電話をしてきて、「岡村君、立派な方だから、あんたがどうしても不安なら、借用書を書いて貰って、貸してあげてくれ。」そこまで言われたら、私は頑張るわけにはいきませんので、貸しますね。しかし、私が退職するまでの二十三年間に、その資料が一度も返ったことがことがないね。いくら請求しても返りませんね。
 だから、頭は昔よりいいんでしょうけど、心は非常に貧乏になっとるのじゃありません?
 それが気になって仕方がない。昔はアジアというのは、精神文化でした。物はなかったが、お百姓でも、義務教育も出ないような人でも、人間的に尊敬できる人はたくさんおった。今は偉い人はいくらでもいるし、金持もおり、口も昔以上にうまいけれども、どうも尊敬できる人が育たんね。心の教育がなくなったんですよ。
 今日も新聞のスポーツ欄を見たら、日本がどうも金メダルを取れない。精神面に課題がある。強化しなきゃならんと書いている。でも、いくら頑張れと言っても駄目ですよ。テレビを見てて、名もないような国の選手は「国のため」とよく言いますよ。国のためと言わんのは日本だけです。
 自分のために頑張ってもしれてますよ。百分の何秒で差が決まるんですから、国家、国民のためということが元に戻らん限り、いくらオリンピックへ行っても、私は日本が良い成績を上げることはまづないと思いますね。
 広島でアジア大会('94)が今開かれておりますけれども、四十二の国の中で、先進国と言われ、所謂経済的にも文化的にも高度な発達を遂げた国というのは、日本だけでしょう。でも私は、それが、危なくなってきたんじゃないかと思う。
 今、広島市内に四百数十人の外国人留学生が来ております。主に広島大学ですが、毎年日本語の弁論大会が開かれます。前のことでありますけれども、韓国の青年が出まして、こんなことを言いました。「僕は二年前に日本にきました。来る日の朝、親父が言いました。『お前は日本に行ってあんまり勉強する必要はない。が、とにかく日本人を見て来い。日本民族は、実に勤勉で真面目で礼儀正しいぞ。その三つをどうか見て帰ってくれ。それが私の願いだ』と。皆さん、僕は今度韓国へ帰りますが、その三つはどこに行ったらあるんでしょうか。」会場はシーンとなりましたよ。僕たちの方がよっぽど勤勉で真面目で礼儀正しいと言い張ってますね。
 今、政治家なんかは口では清廉潔白だと言うけれども、どんどん資産が増えてますね、誰を見ても。私が小さい子供の時に、親父が私の言いました。昔は江田島は村ですから、「村長というのは損するけえ損長さん言うんで」(笑)と笑われたことがありますが、村長なんかしたら私財を投げ出すから、蔵がなくなると言ってましたね。それで、皆が尊敬しておったのですが、今では口では立派なことを言うけれども、資産がどんどん増えてますよね。



         堀内海軍大佐と堺原海軍少尉の死

 
 私は日本人を作った本当の心を残したい。人間というのは、いざという時に本心が出て来るのです。そういうことで、後ほど見て貰いますが、特攻隊員の遺書などに、その片鱗(へんりん)が見える。昔からの心が残っておりますね。
 堀内豊明さんという海軍大佐がおりますが、日本海軍の最初の落下傘部隊の司令官です。落下傘で北ボルネオに降下した時に、舌から射たれて随分犠牲が出た。降りてみたら上官も死んでいる。生き残ったものは腹が立って、その辺におるのを皆殺していった。軍人ならよかったんですが、その中に住民もいた。そこで、戦後十一名が戦犯として処刑されることが発表された。ちょうどその時、堀内さんは江田島へ帰っておられた。奥さんの家へおられたんですが、それを聞いて、びっくりしてすぐボルネオに行って、裁判官に会って、嘘を言っている。「殺したのは私が殺せと言ったんです。罪は私にあるんだ。十一名には罪はない。日本の軍隊では上官の命令は絶対で、覆すことは出来ないのだから、理論的にも私が罪を負うべきで、私が死刑になるべきで、十一名には罪はない」と言って、十一名を日本に帰して、死刑台に上がってますね。
 今は、こんな立派な人、総理大臣でもいないんじゃありません。その方には、奥さんも娘さんもいたんですよ。
 江田島にもう一人、ウェーキ島の最高司令官だった堺原海軍少尉という人がおりました。これはこちらの福島という家のお嬢さんと結婚したのですが、ウェーキ島にいた時に、食糧が乏しくなった。一分でも長くこの島を守るためにといって司令官が、朝御飯を生米八粒にした。昼十五粒。夜二十五粒。これは食べても食べんでも、関係ないような量ですね。捕虜が三百人いて、食料を寄越せって、暴動を起こした。そこでやむを得ず、食料庫の番兵が軽機関銃をこちらへ向けてダァーッと皆を撃ち殺した。
 それが戦後判った。そして米軍が江田島に来て、その司令官を摑まえて、下士官の名前を言え、いまどこにおる?、住所を言えって言った時に、その堺原さんはどう言ったかというと、「昔のことは全部忘れましたが、そのことだけは覚えております。はっきり覚えております。あの晩、私は屋外のトイレに行った。番兵の銃を私が引き取って、私がこの手で撃ちました」と言った。これは全部作り話です。しかし、そう言って、部下を救うために、死刑台へ上がっているんです。
 今、そんな人は全然私はいなくなったんじゃないかと思います。そういう方はこの学校を出られた方です。