先月、関東エリアの とある老人ホームに行きました。
手厚い介護がなされているホームです。
目的は、そこの入所者のご老人の半生を聞き書きするため。
80代のおばあちゃまの担当になりました。
戦争体験は、悲惨なもの。
そういう先入観を持ってお話を伺ったのですが、
そのおばあちゃまにとっては、
まったく違いました。
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おばあちゃまが小学生時代を過ごしたのは、
私たちの社会科の教科書に出てくるような
有名な製鉄所エリア。
その製鉄所の社宅だけで、1丁目から8丁目まであって、
その社宅の子供たちが通う小学校まであったというのですから、
当時の隆盛がしのばれます。
おとうさまは、のちのちその会社の副社長にまでなられた方だそうです。
つまりは、戦中と戦後のある時期まで、日本の経済界をリードしてきた業界の
中枢におられた・・ということ。
その製鉄所のあった地域から、
中学生になると同時に、お父様の転勤にともなって、
東京へ引っ越してきた とおっしゃる おばあちゃま。
すぐに、(あ、東京大空襲を体験されたのかな?)と
わたしは、勘違いしてしまいました。
中学の校庭からは、ある部隊の基地が見えていたそうです。
でも、おばあちゃまの戦争の記憶は、そのくらい。
中学(女学校)時代を終えると、すぐに、お父様は
姫路へ転勤に。
姫路も、その会社の社宅がたくさんあるような環境だったようです。
姫路から、20歳前後になってから東京に戻ってきた、という
おばあちゃまのお話が続き、
「女学校時代のお友達に会えてうれしかったのではないですか?」
と伺うと、
「ええ、銀座で待ち合わせてね、そう三越の前でしたわ。
お友達とお茶をするためにね、待ち合わせましてね。」
・・・う~ん。かなり復興されてから戻って見えたんだ・・・と
思いました。
東京が焼け野原だった記憶は、おばあちゃまには全くないのです。
戦前から、日本の経済の中枢に居られたおとうさま。
業種的には、失礼ながら戦争特需とも言えるくらいの
業績があがった時代だと考えられるし、
軍部との関係も密だったと思います。
・・・だから、姫路に転勤になったんだ・・・
そう、推察してしまいました。
東京が危なくなる前から、姫路に転勤になって、
東京が復興してから、再度東京に転勤になったその副社長さん。
いつの時代も、末端には届かない情報を
握っている人達というのがいるものです。。。。
そんな「きな臭い」背景など、知る由もなく、
そだってきたおばあちゃま。
「おかあさんの味ってなんですか?」
私のこの質問にも、一瞬困った表情を見せる。
・・・ああ、お母様は若くして亡くされたとかなのかな?
などと勝手に想像していると、
わたしには、思いもよらない返事が返ってきた。
「お手伝いさんが3人おりましてね、
お料理はねーやたちが作ってくれていましたから。
お料理を教えたのは、母だと思いますけどね。」
・・・う~ん、そうでしたか^^;
かといって、つんとすましたお嬢様風なおばあちゃまではなくて、
いたって、つつましやかで、昔から病弱だったと
話して下さったおばあちゃま。
「家族の思い出というと、どんなことを思い出されますか?」
そう伺ってみると、
「そうねえ、家族でマージャンをしたのが楽しかったですね。
母と、父と、姉と、わたくしで、卓を囲みましてね。。。」
第2次世界大戦があったころ、
同じ時代を生きていても、
他の大勢とはまったくちがう生活を送っていた人が
いたんだなあ、と。
感慨深く伺ったひとときとなりました。
人の生きてこられた半生を伺う、という仕事は、
わたしのライフワークのひとつに
なっていくと思います。