中陰の花
玄侑 宗久 文芸春秋 ¥400 (文庫: 2005/01)

自ら予言した日に幽界へと旅立った、おがみや・ウメさん。僧侶・則道は、その死をきっかけにこの世とあの世の中間=中陰の世界を受け入れ、夫婦の関係をも改めて見つめ直していく。現役僧侶でもある著者が生と死を独特の視点から描き、選考委員全員の支持を集めた第125回芥川賞受賞作。 「朝顔の音」併録。

親しい者の死の後――残された人たちはどのようにその現実を受け止めるのか、辛い悲しみを受け入れ、死をどのように捉えるべきなのか……。
人それぞれが漠然と抱くであろう曖昧な死という概念が、現役僧侶による分かりやすく美しい筆致で綴られ、そして、一般の人と同じ目線で共に議論するように柔らかな言葉で語りかけられる。

仏教における死生観とは、”悟り”という真理に象徴される。
仏教では釈尊が得た悟りという気付きを格別に重んじる。それは与えられるものではなく、人それぞれの理解であり自身が感得する、深層に訴えかける心の問題ともいえる。
そもそも、仏教における教えでは生自体が苦行であると説き、無明(無知)という煩悩(苦悩)がすべての苦を生じさせると諭す。その苦難を克服するには、修養による智慧を得、心身ともに悟りの境地(涅槃)に達することが理念であり救済とされる。


禅宗(臨済宗)の僧である則道は、禅の教えによる修行という日々の精進を積み重ねながら、身近な者の死を迎えることで、より自覚的に死と向き合うことになる。
死者は死後に何らかの想いを現世に伝えようとするのか、死であり魂とはどのような概念であり状態を示すのか、死を意識することで人は果たして救われるのだろうか……。

則道は霊感が強い妻の何気ない死の観念に触れ、日常生活の中で死と直面する機会が多いにもかかわらず、深く考慮していなかった死生観を改めて再認識するように、共に対話と思索を繰り返していく。その行為は、僧侶である彼にとって伴侶である妻との関係性をも再考する、有益な確認作業ともいうべき貴重な体験だった。

彼の死に対する見解は、仏教の長い歴史の中で培われてきた経典の概念から、現代科学における量子論の解釈にまで幅広く至る。その広範な領域に意識を馳せる柔軟な思考は、狭小な視点による独善的な曲解を生み出すことのない、過剰な先入観や固定観念に囚われない中立的な視点が保たれている。
ゆえに、おがみやという老婆の信憑性さえ不確かな予言のような言葉も、新興宗教に関わりを持つ寸前に至った夫婦の特殊な体験も、妻の霊感による神秘的で言葉では表現しにくい不可思議な現象も、全てを平等に受け入れるように――時に自身の仏教の思想と照会しながら――慎重に耳を傾けようと努める姿勢が貫かれる。彼は仏に帰依する僧侶としての経験と、一般的な人による死の捉え方をあくまで対等とみなし、互いにその解釈を確認し合いながら、常に共通理解を促すことに専念する。

しかし、その議論は無粋にいえば不毛ともいうべき、明確な答など出ない話であるに過ぎないということもまた事実だといえる。当然ながら、彼らの解釈がすべてでは無いだろうし、その捉え方が正しいというわけでも決してない。
双方の見解には、専門的な知識の差や価値観の相違が多く存在する。死が未知の象徴的な対象として、現世を生きる誰しもがその不明瞭な現象をただ夢想するように、その概念は永遠に模索され続ける、至難の問いかけであることに違いはない。

だが、本書において、妻と則道は一種の悟りの境地に到達する。
仏教における死の状態――質量不滅の法則による死後の観念――中陰・中有が、妻の願いにより深遠な叡智と幻想的な想念として混淆を果たす。
それは過去の辛い記憶を懺悔するように許しを請い、救済に縋ろうとする深い祈りが届いたのか、もしくは逆に、心から消えない過去の苦い記憶を救済により払拭するために、改めて悔恨の祈りが成就されたのか……辛い現実である死生の観念を考え、捉え、受け入れることで啓けた、奇跡の光景といえる。

僧である著者による独特な感性で表現されているこの小説は、仏教における死の観念を文学的で簡明な言葉で広く説くように伝達している。また、死という概念を幻視的で詩情のような巧みさで描き、心の奥底にまで響くような繊細さで端的に表現している。
その宗教観ともいうべき現世から涅槃に到る世界観に対する認識は、中陰の花として示唆されたように、その人自身が本書を経験した上で悟る真理として……改めて心の中で形象されるのかもしれない。


『世界観とは、所詮は全貌を見せてくれないこの世界を切り取って観るためのナイフにすぎない』


※本書は生死を扱う題材だけに、人によっては苦悩として受け取られる可能性も否定できない、ということだけは付記しておく。それは本書における内容自体が生という苦を表現していることを、少なからず現実的に意識しておくべきだいう注意点でもある。

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