シャドウ
道尾 秀介 東京創元社 ¥735 (文庫: 2009/08/20)

人は、死んだらどうなるの?――いなくなって、それだけなの。その会話から三年後、凰介の母は病死した。父と二人だけの生活が始まって数日後、幼馴染みの亜紀の母親が自殺を遂げたのを皮切りに、次々と不幸が……。父とのささやかな幸せを願う小学五年生の少年が、苦悩の果てに辿り着いた驚愕の真実とは? 本格ミステリ大賞受賞作。

対称的で対照的な、2つの家族。
似た境遇を持つ両家は互いに影を落とし合うように共存し、密接な繋がりという安定的な関係性が保たれていた家族だった。その学生時代に同じ道を歩んでいた親しい間柄の両親は、運命的に同時期に子どもを授かることになる――凰介と亜紀。
だが、そこで微妙に対称性は崩れ、将来迫り来るであろう光を遮る影が暗示的な兆候として対照されたのかもしれなかった……。

やがて、凰介の母の病死から両家の均衡は完全に崩れ、暗い影が如実に投影される。
亜紀の母親が自殺し、亜紀が怪我を負い、両家の父親は精神を酷く疲弊させる。
はじまりの4人は6人になり、6人が5人に欠け、そして5人は元の4人に戻る。
だが、残された4人は、当然ながら元通りの関係性とは呼べるはずもない。
母親が欠落した両家の4人は、投影された悪辣な影により、狂気の翳りを帯び、苦悩に歪んでいた……。

人は、死んだらどうなるの?
人は死とどう向き合うのか、少年は死とどのように向き合うのか。
人は、読んだらどうなるの?
人は道尾秀介をどう評価するのか、読者は道尾作品にどのような評価を下すのか。
Who's the shadow?


道尾氏らしい筆致で描かれた、本格ミステリ大賞受賞作。
だが、著名な賞を受賞した本作を読んでも、やはり抑鬱されるようにぼくの気分はどうしても……。
道尾氏による語りの虚妄は、真意という光を巧妙に暗い影で被いながら、読者の意識を錯誤の罠に誘う。その特徴的な語りの技巧こそが、道尾作品における象徴であることは疑いようがない。
しかし、その傾向を慎重に捉えると、蓋然性の部分が曖昧に思え……。いや、独白による表現が主なのだからそれは当然であり、要するに、語り(騙り)をミステリにおける伏線として正当に受け止められるか否か、読者側の主観による判断に依存されてしまう作風だとも考えられる。

叙述の技巧は、読者に提示されるという意味においては確かにフェアだといえる。対して、そのベクトルであり意識は完全に内向きなものであり、外に向けて明確に発せられているわけではない。
曖昧な独白による言質であり態度が執拗に繰り返され、しかも大抵が作為的に騙られる。つまり、その信憑性も不確かな言葉はあくまで非純粋な推理の判断材料にしか過ぎず、たとえ数で濃度が増されても、伏線としての根本的な意味が……。だから、ぼくは読んでいても苛々とした感情に……。

暗に濁された語りの些細な疑惑の積み重ねが大きな驚愕を生む、という構図を体現するのが道尾作品であり、その構成手腕が卓越していると評価されるのは納得できる。
しかし、その茫漠とした状態の上に構築されたミステリが、どうもぼくの嗜好的に……。いや、それこそが叙述という騙りのミステリだと考えるのが自然なのかもしれない。でも、なぜか文章から受けるあざとさが目に付く印象が強いというか、ほら……。恐らく、足下が揺らいだ状態のまま読み進めていくことに起因する、曖昧さから生じた不安定な感情に支配される不快さゆえの……。


巷の評判を考慮しても、多くの読者に著者が認められていることは確認できる。
もどかしさを助長させる叙述が徹底された末に、終盤で認識が覆される騙りのカタルシスに酔う、その作品群は広く評価されている。
だが、なぜ、その騙りの筆致に接すると、ぼくは妙に違和感を感じてしまうのだろうか? それはもしかしたら、人の心情をミステリの形式で描くことを主眼とする、著者の主張に起因している可能性も……?

道尾氏の叙述の騙りは、氏の出自通り、やはりホラーの形式を強く踏襲しているのではないだろうか。
ホラーが何か得体の知れない恐怖を徐々に助長させていくのと同様に、道尾作品では人間性の闇であり不可解な謎が徐々に、そして終盤に一気に輪郭を現すように騙られる。ゆえに、全般的に漠然とした曖昧な叙述が続き、嫌な不安感や焦燥感が煽られていく。
しかし、ミステリにおいては叙述トリックという定義が存在し、そこに道尾氏の技巧は分類されてしまう。その認識の不一致さが違和感としてぼくを襲い、読書中に終始苛々とした感情を募らせる。

だが、このような思案も、単に個人の主観であるに過ぎず、些細で不毛なことだ。
要はミステリ小説をどのように感じるかという感覚も、その枠組みの中で構成される各要因(伏線、トリック、プロット、文体など)における許容範囲をどの程度に自身が意識するか、また、新たな風潮としての拡がりをどの程度にまで認めるか、という主観的な判断に委ねられているともいえる。
結局は、言葉による定義自体が曖昧なのだから、その基準は自身の価値観に依存され、比較対象や認識に大いに左右されてしまうのは致し方のないことだ。それは一言で喩えれば、”嗜好”として単純に表現されるはずだ。
上記のような個人的な感情に起因する不遜な発言は、得てして対象により光を浴びている読者に対しては、暗い影を落としてしまい兼ねない事態だともいえるのだろう。それが事実であり現実であることをぼくは重く受け止め、理解しているつもりだ。
Who's the shadow?


『自分はいつまでも「守るべき存在」ではいられない。意志を持って行動しなければいけない』