神無き月十番目の夜
飯嶋 和一 小学館 ¥670 (文庫: 2005/12/06)

慶長七年(1602)陰暦十月、常陸・小生瀬に派遣された大藤嘉衛門は、百軒余りの家々から三百名以上の住民が消えるという奇怪な光景を目の当たりにする。いったいこの地で何が起きたのか? 恭順か、抵抗か――体制支配のうねりに呑み込まれた土豪の村の悪夢。長く歴史の表舞台から消されていた事件を掘り起こし、その「真実」をミステリアスかつ重厚に描き絶賛された戦慄の物語。

依上保と呼ばれる常陸北限一帯は、徳川に抗し版図拡大を目論む伊達・陸奥国と領有を接し、幾度も伊達軍南下の脅威に晒されてきた。保内の各地は月居騎馬軍として編成される御騎馬衆を擁し、防衛の最前線として境域を死守する不文律ともいうべき軍役が課せられていた。
彼の地の民は戦地に赴く代償として、長年に渡り半ば公然と優遇された自治権が認められてきた。保内・小生瀬村もまた半農半士で自活する、兵乱さえ生じなければ悠々自適な暮らし向きが約束された豊穣な土地といえた。

だが、大藤嘉衛門が訪れた小生瀬村は、奇怪な情景としか目に映らなかった。
普段の生活の痕跡が家屋に留められたまま、忽然と村民の姿が霧散するように消失していた。村全体を被う淀んだ空虚な気配は、悪寒さえ感じさせるほどに漠然と得体が知れず、嫌な予感だけを無性に募らせた。静寂が停滞した村落は至る所に死体が散乱していれば、まるで野戦場の跡地にも相応しい怪訝な様相としか思えなかった。
嘉衛門が危惧した洞察は、奇しくも的中してしまう。やがて、道無き森の深奥へと向かう途上に、夥しい数の死体が発見される。異臭と共に村民の屍骸は、老若男女問わず凄惨な姿しか晒さない。眼前の無残な状況は、血腥い惨劇に見舞われた唐突な悪夢であり悲劇的な末路としか言い表せない、名状しがたい酸鼻を極める光景だった――。

『人を陥れたり、殺したり、盗んだりする輩ばかりを畜生と呼ぶわけではない。他人の不幸を喜ぶ、その心根を持つ者はなべて同じだ。鬼も、畜生も、どちらにせよ逃げ道はない』

小生瀬村肝煎(※)、石橋藤九郎。
御騎馬衆随一の馬乗りである藤九郎は、初陣となる伊達騎馬軍との戦で類稀な武勲を挙げ、一躍保内に勇名が響き渡る。藤九郎の性向は温和で器量良く、その資質は広く誰からも認められていた。彼は土豪として権力により民を統べるのではなく、身分の違いにも分け隔てなく規範となる理知と道徳により接す、敬慕される人格者だった。小生瀬村は聡明な領主に恵まれた、平穏で長閑な山里といえた。

だが、時代は刻々と変遷する。
関ヶ原の合戦以後、徳川家康が実権を握り、戦国の時代は終焉を迎えようとしていた。民は戦乱から解放され、遂に泰平の世が訪れるかにみえた。だが、その内実は徳川の絶対的な意向に左右される、封建的な社会構造が待ち受けている統治に過ぎなかった。権力を笠に民衆に過重な苦役を強いる、従属であり隷属という民の犠牲によって成り立つ、中央集権的専制支配が徳川による治世といえた。
徳川直轄の民は疲弊していた。
縄入れと呼ばれる本格的な検地が各地で実施され、厳格な測量で年貢米を納める石高が精査に定められた。租税は五公五民ともいわれ、質素な暮らし向きでさえも苦しむ百姓は日々の生活でさえ困窮に喘いでいた。
その抗えない時代の趨勢が、小生瀬の山村にも時流として到来するのは最早避けられない状況といえた。鉄砲の伝来により従来の戦の仕方が通用しなくなったように、民の意識もまた変革が促されていくのは不可避に逃れられない必然だった。既に時代は武士の存在を否定するかのごとく、武は権力に抗う一揆であり謀反を企てる反乱の象徴としか映らない時代に移り変わろうとしていた……。


歴史とは、正史と呼ばれる時の支配者による権勢が誇示されるように積み重ねられた虚栄の群像ともいえる。その歴史の陰では、常に民衆の悲しみや苦しみが隠蔽されるように、歴史の表舞台から掻き消されてきた。
神無き月十番目の夜である十日夜(とおかんや)に小生瀬村で起きた、尋常ならざる陰惨な悲劇。それが時代の波乱のうねりに呑み込まれ、運命の歯車が破滅的に狂わされていく神無き物語「神無き月十番目の夜」だった。
その記録は長らく歴史に葬られてきた。それは夢と現の民と権力の間隙に揺れた呪縛だった。著者は暗き静寂に支配された悲痛な嘆きを、真実に迫る綿密な考証により闇の深奥から鮮明に捉え、白日の下へと蘇らせた。

本書の主人公となる藤九郎は、ただ村民の暮らしを痛切に案じ、末永い平穏を希求する心優しき賢主だった。だが、彼には時の権力による苦難と、予期せぬ混迷の事態が無情にも次々と襲い掛かる――。
藤九郎は小生瀬の民と役人との折衝に苦悶した。民の暮らしを一向に配慮せず、感情を逆撫でするように強行される強者の思惑と、自尊心や感情論を強硬に主張する弱者の悲痛な叫び。その両者の狭間に揺れる藤九郎の思索は、各々の立場と見解を冷静に憂慮した。そして、物事の表裏を見据えた理知なる視点で現状を察し、双方が納得行く形での譲歩の道を模索し続けた。
彼の本懐は、小生瀬村が子々孫々に渡り永劫に存続する慎ましやかな未来だけだった。苦を耐え忍び、権力との共存を図る道が、先へと繋がる唯一の方策だった。それは横暴な権力の行使に服従する屈辱であるかもしれないが、武士としての自尊心を捨て、村の存亡を託す手立てとしては恭順以外に残された術はないはずだった。
だが、藤九郎の思惟は内向的であるがゆえに、その深遠さとは裏腹に権力側や村民とのすれ違いの認識差が不運にも生じてしまう。相互の傲慢な利己心とも受け取れる不遜な主張――徳川の世に移行する抑圧的な支配と恭順に抵抗を示す村民の意志――は反目するように相容れず、更に感情に身を任せた狭窄的な視野しか持たない粗野な蛮勇の徒による愚策に、藤九郎は苦渋にも翻弄されてしまう。
その失意の破滅へと抗えなく堕ちていく様が殊更に悲哀を誘い、権力と民の分断された二層構造という悲壮な秩序と共に、無力感に苛まれる遣り切れない儚い想いが鮮烈に印象に残される。

藤九郎は時代の潮流を過たずに予見し、事態を見通したからこそ、村の将来を深く懸念した。しかし、小生瀬の民は田に神を祀り(御田・神田)、頑なまでに因習を信心し過ぎていた。
地域の信仰に過ぎない御田の神秘性を妄信するあまり、判断を見誤ったのが悲劇の導因だった。小生瀬の豊かな暮らしが安穏に続くことが永遠であると錯覚し、先見の明を持たない主義主張が愚にも暗躍した。そして、妨げられない時代の勢と迷妄ともいえる少数の情による勢に、藤九郎の達観した賢でさえもが否応なく呑み込まれてしまう……。それは悲劇でしかなかった。共に理解することを放棄した、暴走に過ぎない強固な意志は何も生み出すことなく、無慈悲な惨禍しか歴史には残されなかった……。

かつて、民が半農半士で悠々自適に自活する、小生瀬という豊穣な地が常陸の山里にあった。
彼の地には、道無き森の深奥に連綿と受け継がれ、護り継がれてきた神が宿る御田が存在した。
民は戒律ともいうべき敬虔さで御田(神田)を崇拝し、土着の自然と共生することを規範とする、独自の文化を自尊心と共に強く育んできた。
だが、神を崇める神無き月の十日夜(とおかんや)の祝祭日に、神無き非道な所業が弱き民を襲った。
そして、石橋藤九郎が治めていた小生瀬という村が、滅亡の憂き目に遭ったという伝承だけが後世に残された。


『いつだってそうだ。いつだって弱い者ばかりが最も悲惨を味わう。戦絵巻など、文字どおり勝った者の作り上げた絵空事ばかりだ。よい戦など、この世にはない。戦というものを知った時にはもう何もかも遅いのだ』

※ 江戸時代の村落の長。関東では名主、関西では庄屋、東北・北陸では肝煎と称した。