誰かとの関係で 相手が悪い:相手を憎む・否定する・非難しているとき・・

 

自分は被害者で、傷つけたのは相手で、間違ったことをしたのは相手で、変わるべきは相手だと 思っているとき。

 

それは、実は 

「自分は変わらないと決めていて、変わらないことを正当化している」。

 

それによって、

「自分自身から変容する(成長する)チャンスを奪っている」ということでもあるのだ。

 

「被害者の椅子」は甘くて美味しい。

同情や共感をもらい、関心を得られる。

愛やケアが満たされる感じがする。構ってもらえる。

 

自分自身の「正しさ」をいくらでも主張できる。

 

そして、「加害者」と裁いた相手に対しては、何をしてもいい、どんなに非難してもいい。

 

だって こんなに自分は傷ついたのだから。

だって相手は、間違ったことをしたのだから。

 

 

 人間性すら尊重しなくなり、共感を与える必要などない相手として 扱ってしまう。

 それも無意識に。

 

 時に、「幼少時のトラウマ」に関しても、

「そのトラウマを抱えた自分」というものがアイデンティティになることもある。

 

 「そのせいで自分はこうなってしまった」「だから仕方ない」「自分は悪くない」

 「変われないのは自分のせいではない」 

 

 そんなふうに。

 

 

 自分の今を正当化できる。自分に甘くなれる。

 

 わたしがいまこうなのは、自分のせいじゃない。

 前に進めないのは、仕方ない。

 過去の傷のせいなのだ・・・と。

 

 

 誰でもこのトリックを使って自分を守っている。

 時に自分のプライドを守る。関係性を守る。

 自尊心を守り、信念を守っている。

 

 

 「どうなるべきだ」という話ではないのだと思う。

 気づいていることが大事なのだろうと思う。

 

自分が このトリックによって何を守ろうとしているのか?

それに気づいていること。

 

被害者の椅子に座り続けることによって

もしくは加害者の椅子に座り続け、罪悪感を持ち続けることによって

自分は何を得ているのだろうか? それに気づくこと。

 

自分を自分で嵌めている罠。

自分を「騙している」トリック。

 

 

それを見ることができるかどうかが、知性なんじゃないかと思う。

目覚めなのではないかと思う。

自分が「気づいた」ときに初めて

わたしたちは「別のやり方」でそれを得る方法があるということを知り

「自由に選択する」(これからもこのやり方を選び、ここに居続けるのか、手放して別の方法を自分に与えるのか)ことができるのだから・・・

気づくことによって、わたしたちは 自由に選ぶことができるのだ。

 

 

十字架上の最後の言葉

「神よ この者たちをお許しください。

彼らは 自分のしていることに気づいていないだけなのです。」

 

 

リリスの解放は

「罪という裁きと罪悪感という鎖からの解放」でもあるのではないでしょうか。

ヴィーナスは「赦しの海から誕生する」。

 

 

 

 

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