【少年法等の厳罰化を!】川崎市の多摩川での少年リンチ殺人事件/刑法の目的・死刑制度・少年法改正 | なか2656のブログ

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1.川崎市の多摩川河川敷での少年のリンチ殺人事件
2月20日未明神奈川県川崎市多摩川河川敷中学1年生の少年が、18歳の少年1人、17歳の少年2人ナイフにより、首や顔、両腕などに多数の切り傷や刺し傷を受けるリンチを受け、外傷性ショックにより死亡するという大変痛ましい残虐な事件がありました。

(画像は1997年の神戸連続児童殺傷事件の加害者中学生の、いわゆる「『酒鬼薔薇聖斗」)

この事件の容疑者として、これらの少年3人が2月27日朝に、神奈川県警により逮捕されました。

ところがいつものとおり、テレビ、新聞などは、被害者の中学生の少年については氏名、顔写真などを大々的に報道し、また遺族やクラスメートなど関係者に執拗にマイクを向け、強引に生前の様子をインタビューを取って報道しています。一方、これもいつものとおり、加害者達やその親、友人、関係者などに対しては、これらマスコミはほとんど取材をしようとしません

また、やや先回りしてしまうと、少年法や、刑法における死刑に関する最高裁判例のせいで、今回の少年3年は、このような残虐な犯罪により無実の未来ある少年を殺したにもかかわらず、ほとんど罪を問われないまま、ごく短期間で社会復帰してしまうでしょう。

2.自民党が少年法改正に言及
このようななか、今回の川崎市の殺人事件を受け、自民党の稲田政調会長がとうとう少年法改正に言及したとの新聞報道が2月27日になされました。

・自公政調会長、少年法改正に言及 川崎の殺害事件受け|朝日新聞

記事によると、ここで取り上げられた改正の可能性のある個所は2つです。1つ目は、少年法の対象年齢を現行の20歳から18歳にすること2つ目は、加害少年の氏名を報道することを禁じる規制の見直しです。

これは大きな前進であるといえます。私は現在の政権を全面的に支持するわけではありませんが、しかし、現政権の持ち味である実行力、突破力で、「加害者の人権の保護」などとたわけたことを抜かす民主党などを粉砕して、ぜひともこの少年法改正は成立させてほしいと思います。

3.死刑があまりにも科されない現実
今回の事件の報道などを読んでいて強く感じるのは、ひとつは、わが国の刑法には死刑という刑罰(刑法199条)が存在するにもかかわらず、今回のような重大な殺人事件が発生しても、「たった1人しか殺していないから、加害者を保護すべきだ」として、加害者が死刑とならず、懲役刑などの有期刑などしか処されないという不正義への多くの国民の激しい怒りです。

4.少年法の壁
また、まさに今回の事件のように、10代後半の少年が、成人も青ざめるような凶悪な犯罪を犯しても、少年法の壁により、ほとんど罪を問われないばかりか、被害者の氏名、顔写真などの個人情報は洪水のようにマスコミにより報道されるのにもかかわらず、一番報道されるべき、加害者やその保護者等の氏名、顔写真がまったく報道されないという不正義も、これもあまりにも「加害者保護」が厚すぎるとして、多くの国民が怒っている点です。

5.刑法の目的
そもそも刑法の本質(目的)とは何かということは太古から考えられてきたところですが、紀元前1700年ごろのバビロニアのハムラビ法典は、「目には目を、歯には歯を」という応報刑(=制裁、サンクション)の原則にたっていました。そして、ヨーロッパでも、啓蒙主義以降の16世紀古典学派と呼ばれる刑法学においても、この応報刑主義は大原則となっています。

一方、19世紀以降産業革命による資本主義の発展により、失業などを原因として、何度刑務所に入れられてもまた軽微な窃盗などの犯罪を繰り返し犯す累犯の発生などの新しい犯罪現象が起きるようになりました。

このような現象に対応しようとしたのが、近代学派(新派)と呼ばれるものです。この近代学派は、遺伝子や環境等により人の意思は決定されることや、刑法の目的は応報(応報刑)ではなく、犯罪者の教育である(教育刑)と主張します。

つまり、従来の古典学派が刑法の目的は応報刑によって、実際に処罰が行われて刑法が機能していることを示すことにより、犯罪を計画する者たちに対して威嚇を行い、犯罪行為を予防することと、刑法の執行により、法が機能しているという安心感を一般の国民に与えることの2つにあるとします(一般予防論・フォイエルバッハ)。一方、近代学派は、刑法の目的は、犯罪者の教育である(教育刑)とします。

このような刑法の目的に関する古典派と近代学派との論争19世紀から20世紀の初頭にかけて、ヨーロッパで行われ、ヨーロッパの各種の法律をベースに法律をつくった日本でもこの論争が大いに行われたそうです。

しかし、第二次大戦後には、応報刑を基本としつつ、教育刑の考え方も取り入れるという折衷的な形で、この論争は終息したとされており、日本の現在の刑法も、この考え方に立つとされています。

6.今回の川崎市の事件の犯人達に教育刑や「更生」は適切か
このように、現行刑法が応報刑と教育刑との折衷だとしても、今回の川崎市のリンチ殺人事件のように、成人の犯罪ですら極めてまれな重大な犯罪の犯罪者に少年法があるからといって、教育刑だ「更生」だとは、刑法の大原則である応報刑の趣旨にあまりにも反します。

うえでふれたとおり、現行刑法はあくまでも応報刑を基本としており、教育刑は付属的なものとしているにすぎないのですから、今回のような重大事件にあたっては、まずは刑法の大原則たる応報刑の精神(「目には目を、歯には歯を」)に立ち戻るべきです。

また、このような残虐な殺人事件について少年法や教育法の精神を持ち出すことは、惨殺された無辜の被害者の人命をあまりにも軽んじる話であり、また、国民感情にもあまりにも反します。

このような残虐な殺人事件を犯した鬼畜のごとき犯人達3人にはもはや矯正・教化の余地はなく死刑こそが人の道として正当でしょう。

7.なぜほとんど死刑が適用されないのか
つぎに、わが国では、重大な殺人事件が起きても死刑判決がほとんどでないのは何故なのでしょうか。
刑法の殺人の条文はつぎのようになっています。

刑法
(殺人)
第199条  人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。


殺人の犯人は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役となる、と規定されているので、たしかに1人の被害者を殺人したら、必ず加害者が死刑になるとは規定されていません。

しかし、誰もが知っている通り、近代以降の世界の文明国家においては、法の下の平等の大原則があります(憲法14条)。つまり、人間の価値は1人1人同じで平等のはずです。憲法14条に照らし、加害者の人命は尊重されるべきだが、無辜の被害者の人命はなんぞ軽んじても構わないなどという結論が許されてよいはずがありません。

にもかかわらず、わが国の刑事裁判において、殺人事件の司法判断において、「被害者がたった1人しかいないから死刑でなく懲役刑」という、国民の常識からあまりにも乖離した裁判官の判断が出され続けています。

このような判決の原因は、死刑の判断として、犯罪の性質、犯行の動機、犯行態様(特に殺害方法の執拗性、残虐性)、被害者の数などを”諸般の事情を総合考量”という裁判所がどうとでも判断できるあいまいなブラックボックスのような基準を示した「永山基準判決」(最高裁昭和58年7月8日判決)があることが原因です。

この判例が出された結果、その後、殺人を犯した犯罪者が全然死刑とならず、有期刑となるばかりとなりました。この判例を支持するのは殺人犯予備軍である暴力団関係者か、あるいは加害者の人権保護ばかりに熱心な弁護士・裁判官だけではないかと思われます。

なお補足すると、わが国の司法制度においては、もちろん裁判のベースは法律となりますが、その解釈は裁判官にゆだねられます。そして、裁判の世界では、先例との整合性が重視されます。そのなかでも、裁判所の一番上位である最高裁判所の出す、最高裁判決は、俗に「判例」と呼ばれます。判例を変更できるのは最高裁だけという意味で、最高裁は特別な地位を持っており、地方裁判所、高等裁判所などにとっては最高裁とこの判例は絶対のものです。

8.日本で死刑をもっと適切に適用させるためにはどうしたらよいか
最高裁にこの判例を変更させるには、たとえば国民が市民運動などをして世論を喚起するとしても、その効果がでるには、50年、100年とかかってしまうでしょう。その間にも、無辜の市民をターゲットとした劣悪な犯罪者による殺人事件は起きてしまうでしょう。

そこで、できるだけ迅速にこのような悪しき最高裁判例を突破するには刑法の改正しかありえません。つまり、わが国の主権者たる国民の国会による力で、刑法199条を、「人を1人でも故意に殺したら必ず死刑」といった趣旨に改正する必要があります。

立法府たる国会による刑法改正によって、その法をもって強制的に裁判官に国民の意思に服従させる必要があります

彼等は「法律」と、自分たちが書いた加害者の人権保護に手厚い「判例」をベースにしか、判決文を書かない「裁判所」という特殊なお役所の人間たちなのですから。

このように、刑法199条を「人を1人でも故意に殺したら必ず死刑」といった趣旨に改正すれば、いかに裁判官が判例をいじくろうとも、死刑以外の判決を出すことはできなくなります。

9.少年法について
最後に、2月27日に自民党が表明したように、少年法の改正は当然必要でしょう。

うえでふれたとおり、19世紀の産業革命による資本主義の発展により、従来にない累犯の発生等が発生し、教育刑の考え方が生まれました。それに対して、1990年ごろから世界で爆発的に発展したインターネットやスマートフォン等の情報技術(IT)によって、現代社会においては、大人や子どもが、かつてとは異なり、莫大な情報を自宅に居ながらにして得ることができる時代となりました。

近年、少年の犯罪が凶悪化している背景には、従来はなかった、インターネットを媒介として、「未成年であれば少年法が守ってくれるからどんな犯罪をやっても大丈夫」といった、一昔前には得られなかった情報を、非行にはしる少年たちがスマートフォンなどで入手して、つけあがっていることがあるのではないでしょうか。

このような時代には、これまでとは逆に、少年に対してもその罪に見合った適切な刑罰を科し、そのさまをネットなどのチャネルで大々的に報道し、非行に走りそうな少年たちを威嚇し、抑止する必要があります。

10.少年法の適用年齢変更
そのため少年法の適用年齢(少年法2条1項)を引き下げるとして、この点、犯罪者の「責任能力」(=行為の実質的違法性を判断し、その判断にしたがって行動する能力)について定める刑法41条は、「14歳に満たない者の行為は罰しない」と規定します。

たしかに一般論として、中学2生くらいになれば、自分がやってよいことをやっているのかそうでないのか、といった判断は十分できると思います。それを現行の少年法のように、20歳まで引き延ばす必要性はまったくないと思います。

また、現在、国民投票法に関連して、投票権民法の成年の年齢を18歳にする議論が高まっていますが、少年法の対象を20歳から18歳に変更するという軽微な変更では、少年への威嚇の観点から意味がないと思います。

私は、刑法41条にそろえて、14歳未満とすることが一つの落としどころではないかと思います。

最終的には、非行少年を甘やかすだけの、時代錯誤な少年法の全面的な廃止が望ましいと思います。)

11.少年法による加害少年の報道禁止について
また、これも自民党が言及した、「加害少年の氏名を報道することを禁じる規制の見直し」も当然でしょう。

現在、マスコミ被害者の氏名、顔写真などの個人情報、プライバシーを大々的に報道し、泣き崩れる被害者の遺族にマイクを押し付け「今の気分はどうですか!?今の気分はどうなんですかー!?全国の視聴者は知りたいと思っているんだ!!答えなさいよっ!!”などと犯人を取り調べるかのように問いただすテレビ局の記者などの様子を見かけます。

ああいった人権侵害、犯罪の二次被害、メディアによるリンチなどは、加害者本人とその親、知人、関係者などに対してこそ、マスコミはがんがん行うべきでしょう。(そのほうが売り上げや視聴率もずっとあがるはずで、マスコミとしても旨みのある話のはずです。)

12.補足・ネットにおいて加害者と思われる人物などの個人情報をネットにアップする行為の是非

今回の事件においても、すでに加害者3人と思われる人物の氏名・顔写真、住所、自宅を映した動画などがネットにアップされ流れているようです。

今回の殺人事件の残虐さに照らすと、国民・市民の怒りは当然のことであり、ある意味、この程度のことは想定の範囲内でしょう。まだまだ、生ぬるいくらいといってもいいかもしれません。

うえでふれたとおり、刑法の目的の基本である、応報刑主義においては、実際に処罰が行われて刑法が機能していることを示すことにより、犯罪を計画する者たちに対して威嚇を行い、犯罪行為を予防することと、また、刑法の執行により、法が機能しているという安心感を一般の国民に与えることの2つにあるとされています。

ところが、近年のこのような未成年の少年の凶悪な犯罪事件においては刑法は少年法という悪法によりブロックされてしまっており、正常に稼働してきませんでした。凶悪な殺人犯の未成年は死刑を執行されることなく、薄ら笑いを浮かべてごく短期間に少年院などの施設を出所し、社会復帰をしてしまっています。

このように凶悪な殺人事件が起きたのに、死刑が執行されないということになれば、犯罪予備軍、とくに未成年の非行少年たちは、「ああ、自分たちは殺人をやっても全然大丈夫なんだ」と悪い意味で学習します。そしてその一部はそれを実行してしまうでしょう。

また、そのような少年法の存在による重大犯罪を犯した少年の免責は、応報刑のもうひとつの目的である、「刑法の執行により、法が機能しているという安心感を一般の国民に与えること」という刑法の重要な目的のひとつを完全に粉砕することになります。

刑法などの法秩序がガタガタになっており、機能していない、という恐怖感国民・市民に与える不安感・不信感・恐怖感は深刻です。それはつまり、法をつかさどっている国家機能そのものがもはや信用できないということなのですから。

(また、この点は、「わが国の最高責任者」である、現在の内閣総理大臣である安倍氏が、わが国の最高法規(憲法98条)たる憲法に対して、露骨に「みっともない憲法」とこれを侮辱する言動を行い、憲法を遵守しようとせず、内閣総理大臣たる人が憲法尊重擁護義務(憲法99条)を果たさない姿勢を国民に示している影響も大きいと思います。行政および国会の長たる内閣総理大臣が憲法および法律なぞどうでもいいという姿勢を示している以上、全国の公務員や政治家、民間企業の役職員などはその姿勢を大いに見習うでしょう。)

そのように、もはや国家が信用できないとなれば、国民・市民はいうなれば「自衛団」を結成し、自らで自らを守るしかありません

法律上の大原則として、「自力救済の禁止の原則」があるんですよなどと弁護士ら識者が小賢しげに言ったとしても、国民・市民はもはや耳を傾けないでしょう。国、自治体、警察、弁護士などが国民の生命・身体・財産を守ろうとしないのですから、国民・市民が自力で自らを防衛するのは当然のことです。そういった空虚な原則論は、非行少年らの人権保護に熱心な弁護士達が非行少年の犯罪をこの世からゼロにしてから言うべきです。

刑法的にいえば、これらの国民・市民の自衛の行為は、もはや正当防衛・緊急避難(刑法36条、37条)といえるでしょう。

また、しばしばこれらのネット上での加害者の個人情報のアップロード等において問題となるのは名誉棄損罪(刑法230条)に関してです。しかし、そのひとつ後ろの条文である、230条の2は、「公共の利害に関する事実に係り、かつ、その目的が専ら公益を図ること」であるときは、名誉棄損罪は成立しないと規定しています。

ですので、しばしばマスコミどもがやっているようにゴシップ的に、面白おかしく興味本位で事実をネットにアップロードしていたら問題でしょう。しかし、非行少年らを威嚇し、犯罪を抑止し、健全な市民社会を防衛するという公益に資するような内容・目的による行為であれば、刑法230条の2に照らし違法性が阻却され、名誉棄損罪は成立せず、問題はないと思われます。

*追記
3月4日夜の毎日新聞ネット版の記事によると、3月5日発売「週刊新潮」が、今回の事件の18歳の加害者少年実名・顔写真を掲載して刊行するそうです。

・<川崎中1殺害>週刊新潮が18歳少年の実名と顔写真掲載|毎日新聞

週刊新潮編集部社会正義の実現のための断固たるファイティング・スピリッツに、敬意を表したいと思います。

思うに、真のジャーナリズムとは、政府が再三にわたり危険だからからやめろと注意しているにもかかわらず、紛争地帯のシリアに入国して「イスラム国」に捕まって人質となり、日本の国民・国家に甚大な迷惑をかけるような、「平和ボケ」した勘違いの自称・フリージャーナリストであるとか、この「イスラム国」人質事件の発生後に、シリアに渡航しようとして外務省から旅券の返納命令を受けて、「私の人生の生きがいを奪われた!」論点ズレまくりの記者会見を開く自称・フリーカメラマンなどの輩を指すのではなく、このような社会正義の貫徹を希求する週刊新潮編集部こそを指すのでありましょう。

週刊新潮の記事を踏まえて、少年法の改正や廃止、そして死刑の適切な執行のための刑法の厳罰化などの国民的な議論が進むことが期待されます。


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