みなさんは、「害虫」と言われてどんな物をイメージしますか?
虫が全般的に苦手だと言う人もいます。
子どもの頃はあみを持って虫を追いかけまわしていたはずなのに、大人になるにつれて虫に対して気持ち悪いという感情を抱くようになってしまう人が多いのはなぜでしょうか?
昔はなんでも好奇心・興味の対象だったのに・・・関心すらもなくなって嫌ってしまうもの。苦手分野の勉強も同じかもしれません。
原因を探索してみます。

・小学校までは休み時間は校庭で遊んでいましたが、中学生にもなると、運動部でなければ体育の時間以外ほとんど校庭に出ない人が増えてしまったのではないでしょうか?
イマドキの子どもたちは、公園にへ行っても泥遊びというよりは、ゲーム機で通信して戦っているような子たちもいるほどです。
昔の人は畑仕事などでいくつになっても土と生活が切り離せない物だったと思いますが、今の時代は普通に暮らしていては土はおろか、砂さえも疎遠になってしまいます。これでは虫だって出会わないですし、もちろん菌が足りない!清潔すぎて免疫力が低下してしまします!

過去のるいネットからも明らかです!
「泥んこ遊び」で免疫力が高まる理由リンク
によると
・子どもの頃にペットを飼っているとアレルギーになりにくい
・農家で育った子には花粉症が少ない
・家畜小屋に出入りしている子どもは花粉症や喘ぜんそく息の発症率が低い
・家畜と触れあう機会の多いモンゴルの遊牧民にもアレルギー患者は極端に少ない

などの事例があがっており、とにかく自然と触れ合わない現代人の身体がひ弱なのは当然だとも言えます。

ではなぜ、自然と触れ合わなくなってしまったのでしょうか?
このオフィス街を見ても明らかなように、都会には土がないし動物も虫もいない。たまに出てくる虫は「害虫」呼ばわりされ、見つけたら悲鳴をあげる者、抹殺する者が一般的である。

大人がこれでは、子どもはさらに自然環境から遠ざかっていくのも納得ですね。
ひとりでも多くの大人がこの事実に気づき、子育ての方針を変えなければ、どんどん病弱な子どもばかりが育ってしまいます!


自然界での唯一の生産反応式が光合成である。たとえ百獣の王ライオンであっても、地球上で最も賢い動物であると思っている人間であっても、この反応で生産された緑の植物に寄生する存在でしかないのと同じ事だと言える。サービス産業のような虚業が評価され、生産業のような実業が軽んじられるのを情報化時代といい、土から遠ざかる事、脱農を近代化というのなら、共に人間にとって不幸な時代というしかない。こう云う事を本能的に彼らは感じ、この事を伝えようとしていたのではないだろうか。

 或る農学者が、「「百姓」とは「百」は「たくさん」、「姓」は「かばね」これは古代の苗字に当るもので、苗字は昔、職業を表した。要するに姓は「能力」を意味する。従ってたくさんの能力が無いとできない仕事が「百姓」という事だ。」と説いている。そうならば、人間として生まれ持って来たあらゆる能力を十二分に発揮して生きられる仕事、それが農業ではないだろうか。
 まずは、土や肥料について十分に熟知する事、つまり化学知識を持つこと。又地形に沿って棚田を拓き、水を落とし灌漑を施すなど土木、水利技術を駆使していた。他にも様々な、環境工学の知識・作物の流通や相場に対するセンスを発揮していた。又現在のように、全てを行政に世話される時代と違って「百姓」はコミュニティリーダーでもあったし、ボランティア活動に参加する事は当然であった。つまり、自らの能力を社会に対しお互いに発揮することで自他を認め合い、より良い社会を形成していこうという姿勢が農業の本質であり「百姓」として、又、一人の人間としての誇りを育てる土壌がそこに存在したのではないだろうか。
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