パルが排膿ドレーンを入れたのは4月21日、月曜日のことでしたが、この入院には、最初から課題がありました。
実はK先生の病院は、本来は入院を受け付けないタイプの動物病院なのです。
毎晩、19時を過ぎると病院は無人になります。
院内は真っ暗です。翌朝スタッフが登院するまで、パルは、暗闇の中で一人で過ごさなければいけません。
毎週木曜日は休診日で、一日スタッフは来ません。水曜夜から金曜朝まで、預けておくことはできないのです。
おまけに、目前にGWが迫っていました。カレンダー通り、赤い日は休診です
(5月1日の画像。シリンダーの中の色が今までと全く違うのがわかりますか?)
このシリンダーを全部使って、ドレーンから膿を抜き、生理食塩水を入れ、また抜いて胸の中を洗浄する。
それを一日2回ずつ。
スタッフのいない小さなクリニックのため、処置の時はドアに「処置中です」と紙が張られカギも掛けられて、
K先生は他の患者さんを受け付けなかった。
パルのために、先生にもスタッフにも大変なご苦労をおかけした。
今は我が家の猫となっているトミ黒が深刻な病気になった時、2週間の入院治療をして頂いたことがありました。
(→「トミ黒」ができるまで )
その時、K先生から、「水曜夕方に処置を終えたトミ黒を引き取りに来て、また金曜朝に病院へ送り届けては?」と提案されました。
K先生は「保護」ができない私の家庭事情を最大限尊重してくださって、病院の方針を変えてまで、柔軟に対応してくれたのでした。
(結果、トミ黒に惚れこんで公園に戻せなくなってしまった私は、彼を我が家へ迎える決断に至ったわけです)
その時のトミ黒は大したものでした。
夜中に一人でいても荒れることもなく、バリバリとフードを食べ、モリモリとウンチをし、
一日2回の辛い治療 (涙鼻管に無麻酔で針を刺して洗浄するという) が終わると、
診察台を飛び降りて自分でバックヤードへの引き戸を開け、自分のケージボックスに飛び込む、という離れ業をやってのけ、
日中は日当たりの良い窓際に座って、大通りを行きかう人や車を眺めて過ごしました。
K先生もスタッフさんも、外で暮らしている猫がこれほどの適応力を見せるとは思っていませんでした。
「トミ黒は、凄い。こんな猫は滅多にいない」 と一目置いて、大事にしてくれました。
しかし、パルは違いました。
一日2回の排膿処理の時は緊張で全身を強ばらせていました。手足に触れると、ビクッと過剰反応するのが痛々しく思われました。
処置をして下さるK先生とスタッフは、パルには鬼婆に見えたのでしょう。
日中はケージボックスの中で不機嫌極まりなくじーっと過ごし、夜中には、怒りと寂しさに駆られて、備品をめちゃくちゃにしました。
そしてあろうことか、病院で出すフードを食べようとしないという形で、反抗の意思表示をしました。
食べないことには体力が戻りません。 K先生は、困りました。
パルは、寂しかったのでしょう
まだ、たった4歳の若猫です。公園で10年も過ごし、あらゆる経験をしたからこそ人間に信頼を寄せるトミ黒とは、違いました。
賢いパルは、なぜ病院に連れてこられたかを理解していたでしょう。体力が落ちて、立つこともできず、自信を無くしていたでしょう。
でも、排膿が順調に進んで楽になるにつれ、
仲間の猫と連れ立って、寝静まった街にわくわくしながら冒険に繰り出す自由を封じられたことが、
受け入れ難く、腹立たしく感じられたのではと思います。
シートン動物記に出てくる囚われの野性動物さながら、パルは殻に閉じこもり、
ハンガーストライキという形で、必死に武装して、抵抗しているようでした。
育ての親・晶子さんが面会に来ると、モノは嬉しそうに、声を上げて反応した。
そして目の前でガリガリと音を立てて、術後初めてまとまったフードを食べた。
食べなければ体力が付かない。モノ、食べて早くマルメロに戻ろう!
しかし、パルの青臭い抵抗は思わぬところで頓挫しました
ドレーンを付けた翌日、私が会いに行くとパルは喜んで、小さな声で鳴きました。
そこで公園用スペシャルミックスをそっと出すと、思わずガリガリ食べ始めてしまったのです。
「あれ?sakki さんが来ると食べるのね。私たちが出しても食べないのよ。毎日ご飯食べさせに来て」 と、
K先生は冗談交じりに言いました。
続いて晶子さんもやって来ました。パルはもっと喜んで、初めて前足を立てて、歓迎しました。
「モノ、モノ」と呼びかける晶子さんに撫でられながら、壊れていたスイッチが入ったかのように、給餌皿のフードに夢中になりました。
一日に何人も、マルメロ通りの皆さんが面会に来てくれました。
そのたびに違う名前で呼ばれるパルは、そのたびに大歓迎して、大喜びで食べたのです。
パルは正確に、マルメロの人たちの顔と、病院のスタッフを見分け、区別していたのです。
私は出来の悪い息子の尻拭いをする母親のようです。
「獣医さんと言うのは、つくづく損な役回りですね。命の恩人なのに疎まれるなんて。先生、ホントにすみません」と、
変な言い回しでお詫びをしました。
すると先生は、「うん、確かに。損してるよね~。
それにしてもパルの人気は凄い! 外の猫なんでしょう?こんなにたくさん面会があるなんてビックリ」
トミ黒にしろパルにしろ、私の連れてくる猫はかなりの個性派揃いでした。
先生の「可愛そうな野良ちゃん」というイメージは、少しだけ覆されたようでした。
面会者が来る=ご飯を食べる、の図式は功を奏しました。
22日には白血球数が16000に跳ね上がりました。食べることで、戦闘システムが正常に反応し始めたのだと評価されました。
この日、初めて平熱に戻りました。
面会者が来るたびに食べ始めるパル。君は本当に地域の猫なんだね。
カンパを募り、毎日パルの病状を知らせるために走り回っていたが、みなさんが面会に行ってくれるとは思わなかった。
マルメロ通りを挟んだお向かい同志、隣同志であっても、年齢も家族構成も生活ぶりも違い、
挨拶しか交わしたことのなかった皆さんが、誘い合って病院に行ってくれるとは。
「お隣とは共通の話題がなくてね。パルのことですっかり仲良くなったわ」と聞かされてニヤニヤした。
道の真ん中で誰かにパルの報告をしていると、
2階のベランダやお向かいから人が出てきて、いちいちピンポンしなくて済んだ
面会に来てくれた方の一人が、ある申し出をしてくれました。
「夜中、うちで預かって、うちから通院させるというのはどうでしょう?
その方が、白黒くんも食べるのではないかしら? 今は食べることが大事ですよね」
幸楽さん(コウラクさん・仮名)という、マルメロ通りにお住まいの若いご夫婦でした。
これは、願ってもない申し出でした。
幸楽さんはGW以降は予定があるけれど、4月中なら預かれると言ってくれました。
これで、とりあえず24日木曜の休診日の、パルの居場所が確保できます。
私は、大変ならいつでもバックアップするつもりで、幸楽宅からの通院を先生に相談し、許可をもらいました。
私はこの日のために、病院仕様の折り畳み式の保護ケージを購入していました。
K先生も、子猫用の「にゃんとも清潔トイレ」のセットを提供してくれました。
23日水曜日の夜、排膿処置の終わったパルをキャリーに入れ、届いたばかりの保護ケージやトイレを自転車に積んで、
幸女さんと一緒に幸楽さんのお宅へ、パルを運び込みました。
マルメロ通りに入ると、暗幕が掛かっているにも関わらず、キャリーの中でパルが騒ぎ出しました。
いつも思うのですが、なぜ帰ってきたことがわかるのでしょう? 猫は、視覚より空気や匂いや音で、場所を記憶していると感じます。
相葉さんとお嬢さん、お孫さん達、それに桜井さんも合流してくれて、みんなでわさわさと保護ケージを組立てました。
パルは、ドレーンポケットを固定するテープを外せないようTシャツを着せられた上、カラーもしていたため、
最初はパニックになって暴れていましたが、
私たちが帰ると、幸楽さんのお宅にセットした保護ケージの中で、借りてきた猫のように落ち着いたそうです。
こうしてパルは、真っ暗な病院で一人夜を明かす寂しさから解放されました。それがどんなにパルを勇気づけたでしょう。
フードを出すたびに、ガツガツ食べ、水もたくさん飲み、夜中と翌日には立派なウンチが大量に出ました。
結局、24日の休診日は、排膿処置を中断するのは危険と判断したK先生が手配してくれて、
違う町の分院へ連れて行くことになりました。私は朝と夕方、車で2往復しました。
迎えに行くと、パルは借りてきた猫状態に戻って、無抵抗で処置を受けたらしく、「良い子ですね~」と若い先生に褒められました。
この日まで60cc以上だった膿は、翌日からやっと、30cc前後になりました。
幸楽さんのお宅にセットした保護ケージ(の中のトイレ)に納まったパル。
幸楽さんとは、ゼンチャ騒動の時、私のトラップを見て「それは何ですか?」と声を掛けて下さったのがきっかけで知り合った。
実は時々、パルは幸楽さんのお宅に上がり込み、リビングのソファの上に寝そべって過ごしていたそうだ。
右側のボロボロになった段ボールは、「白黒くん」専用の爪とぎだそうだ。
拘束されているとはいえ、このお宅で過ごせることはパルにとって嬉しいことに違いない。
パルは、幸楽ホテル、猫崎ホテル滞在中に、一旦は完璧にトイレを覚えた(はずなのだが…)。
5月2日のリリースまでの間、パルは幸楽さんに5泊も泊めて頂きました。
その間、幸楽さんは通院や引き取りもやってくれて、私も一息つくことができました。
目前に魔の黄金週間が控えていました。しかし私は、「何とかなる」と感じていました。
カンパのことにしても、泊り先にしても、
助けて下さい、と口にしさえすれば、手を差し伸べてくれる人がいることがわかっていたからです。
パルも私も、地域の方に救われました。
しかし、幸楽宅のガラス越しに聞こえてくるマルメロ通りの音、人の声、吹き込む風の匂いなどは、パルの本能を激しく刺激しました。
元気を取り戻すにつれて、パルは「出せ、出せ」と言って鳴き、その声はマルメロ通りの他のお宅にも聞こえました。
幸楽さんは睡眠不足でフラフラだったでしょう。
しかし、幸楽さんは自分から辛いとは口にせず、白黒くんの回復のために頑張ってくれました。
この後、私も、家族に気を使いながらパルを預かるという、肩身の狭い苦行、
しかし、やってみなければわからない、新発見だらけの貴重な経験を、身をもってすることになりました。
「パル・サビアーニ・オセロ様御用達 ホテル・猫崎 」を、私も開業することになったのです。
(パル・サビアーニ・オセロというのは、私と幸女さんが面白がってつけたパルの本名で、‟サビーの兄”という意味です)