4月21日の午後、パルはドレーンを入れる手術を受けることになりました。
前日穿刺して180ccもの膿を抜いたパルでしたが、バックヤードのケージの中で、うつろな目をしてトイレにもたれていました。
パルの体の中の異変が続いているのは明らかでした。すでに食べられなくなって何日過ぎていたのでしょう?
今日の手術は全身麻酔下で行うため、まだ食べさせることはできません。
麻酔から覚めたら、一口でも食べてほしい。体内の異変と闘うパワーを得るために、とにかく食べてほしいと思いました。
私は痛々しいパルの姿に後ろ髪を引かれながらも、K先生は必ずうまくやってくれると信じて、病院を後にしました。
その足でマルメロ通りに向かい、考え付く限りの人を訪ねて、パルが今日手術することになったと知らせて歩きました。
排膿ドレーンを付ける手術を受ける前のパル。
病院でたったひとり、2回目の夜を明かしたパルは、先生たちが登院すると、ひいひい鳴いて迎えたそうだ。
寂しがり屋のパルらしい。
お腹が空いているはずなのに、手術を終えても、給餌皿のフードに口を付けようとせず、
体力が回復しないことが心配された。 これを解決してくれたのが、「ご近所の底力」だった
手術が終わるまでに、もうひとつやっておきたいことがありました。チラシを作ろうと思っていたのです。
2010年暮れから、私はマルメロ通りの全頭TNRをしました。結果的にその数は17匹にもなりました。
そのうち、パルを含む2組の母子計8匹は、狭い路地裏で可愛がられて育ったために人懐こい猫たちでした。
私はその時、この8匹を「個人の囲い込み」から解き放って、「地域で認知され、世話を受ける猫」へと転換する という、
青写真を描きました。(この時のことは、「最低の町に現場を作る」 「最低の町の奇跡」 などに書いています)
それから5年経ち、私の描いた青写真は現実となっていました。
母子2組は路地裏を離れ、マツモトさんが作ってくれた公認餌場を中心に、
あちこちのお宅にお邪魔したり、給餌に通って下さる方に見守られながら、穏やかに過ごしています。
猫たちがお世話になっている人の中には、私が知らない方もいるかもしれません。
隠れファンにも、パルの入院を知らせなければ。 その手段が、チラシの配布でした。
(パルは2010年の5月に生まれたそうなので、「5歳」というのは間違いで正しくは4歳)
私が知らないパルのファンがいるかもしれないと思い、路地裏周辺の20軒にチラシを配った。
予想通り、お話したことのない方からもカンパが届き、ご挨拶することができた。
封筒を開いて行くと、見たことのないほどの大量の千円札の山ができた。
その一枚一枚が、パルを助けたいという貴重な気持ちに思われて、嬉しかった
そのチラシで、私は医療費のカンパを募りました。カンパの届け先は、最初に通報してくれた相葉さんにお願いしました。
1日1万円の治療費です。治療が長引けば、相当な額になると思われました。
どんなに高額であっても、構わないから治療してくれと、決断したのは私でした。
でも、パルは私の猫ではなく、地域の猫です。
私が孤軍奮闘して、お金を全部出して、パルを救って自己完結したところで、何の意味もありません。
困った時こそ地域に知らせ、地域の力を借りる。そうすべきだと私は考えていました。
カンパを下さった方と私が繋がり、やがて、カンパした同志が「あの猫は、どうなったかしら?」と繋がっていく。
それこそが、値打ちなのです。 そういう仕組みを作っておきたかったのです。
チラシを撒いて、状況を知らせに歩き、カンパを回収し、お礼に走り、病院に通い、人を繋ぎ…。
何倍もの手間がかかることはわかっていました。 そんなことはとっくに折り込み済みでした。
ただひとえに、今、私が走り回らないでどうする と思っていました。
私が走り回る様子を、地域の人は見ている。必ず反応してくれる。…そう信じて、やれることは全部やると決めていました。
手術を終えたパル。今日2度目の排膿処理を受けているところ。
「パル入院」と聞いて私と一緒に面会に来た晶子さんは、診察台の上のパルをずっと撫でていた。
脇腹に差し込まれたドレーンをクルクル巻き、滅菌ガーゼで作ったポケットに入れ、
ポケットごと胴体に固定するために、パルの腹部には何重にもテープが巻かれていた。
パルは毛づくろいをする元気もなかったが、万が一引っ張ってドレーンを抜いてしまうと、
穴から直接外気が入り、命の危険にさらされる。
そうならないようにカラーをつけられたパルは、さも不服そうに、ふて腐れていた。
今は、我慢。 我慢するんだよ、パル
夕方、麻酔が覚めたと連絡をもらって、パルに面会に行きました。
パルは、白いテープでグルグル巻きにされていました。
何をされてもなされるがままの気弱なパルを見て、一緒に行った晶子さん
は、絶句していました。
私はK先生から手術の説明を受けました。
左脇腹に穴を開け、ドレーンを体腔内に差し込んで、一針縫い合わせて固定したそうです。
入れたばかりのドレーンからは、120ccもの粘度のある膿が出たそうです(夜にはさらに60ccの膿が出ました)。
生理食塩水で洗浄すると、粒状の膿の塊も混ざっていました。どこかで、古い膿が固まっているようでした。
「ドレーンを装着する穴を、左側に開けた」と聞いて、私は驚いてしまいました。
「体の中と言うのは、左右繋がっているようで、繋がっていないんです。
だから、体の向きをいろいろ変えながら膿を抜くんですけれど、どうしても、ドレーンの反対側には膿が残ってしまうんです。
心臓の周りに取り切れない膿が残ると、負担がかかって、心臓が弱ってしまいます。
それを避けるために、左側にドレーンを入れました」
K先生はさらっと言ってのけましたが、心臓を傷つけないように、細心の配慮と、思い切りが必要だったはずです。
いつもながらの敏腕外科医・K先生の英断に、私は心の中で喝采を送りました。
左の脇腹につけたドレーンにシリンジを付け、膿を吸い出す。
その後生理食塩水を別のシリンジで入れて、内部を洗浄し、また吸い出す。
その繰り返しの処置を、1日2度行う。ドレーンを付けたことで、負担も少なく、安全に処置を行えるようになった。
しかし、一度装着したドレーンを使えるのは1週間~10日が限度だ。
感染の経路になったり、ドレーンの先が刺激になって新たな炎症を引き起こしたりするからだ。
限られた時間内でもしも膿が減らなければ、また違う方法を考えなければいけない。
K先生も私も、なんとかうまく行ってくれ、と祈った
こうして、パルのドレーン装着は無事に終わりました。
装着手術自体の危険性を認識していた私と相棒の幸女さんは、腰が抜けるほどホッとしました。
この後は、ドレーンの先端の刺激や、細菌の感染を心配しながら、
効果的に膿を抜き、洗浄し、抗生剤を投与し、どこにあるのかもわからない炎症を解消できるかが、勝負を分けます。
パルの治療は、一歩目を踏み出したに過ぎませんでしたが、生還への最も大きなステップを踏み越えたことは確かでした
嬉しいことは他にもありました。カンパが集まり始めたのです。
総額は、5月2日までの医療費総額のなんと9割にもなり、私は一旦下ろした相当額のヘソクリを、猫貯金に回すことができました。
毎日状況を知らせるためにマルメロに行くと、あちこちから人が出てきて、一緒にパルの話をするようになりました。
手術の当日から、地域の皆さんは誘い合わせて、毎日パルに面会に行ってくれました。
今日は4組も来たよ、と先生は苦笑していました
今振り返ると、このことが、パルの回復を助ける重要なカギとなりました。
パルの命は、地域の皆さんによって、救われたのです。