駆けつけた鶴亀家の狭い事務所には、不信感が渦巻いていて息苦しいほどでした。
「母さん! あんたも来なさい」と呼びつけられた鶴亀さんはおどおどやって来て、
息子さんの見ている前で、「もう少し、安くなりませんか?」と繰り返しました。
私は哀れに思いました。
鶴亀さんには、保護に出す子猫に持参金を持たせる意志はあるのです。
ただ、金額がご自分のキャパを超えている。
だから、自尊心と引替えにして、「もう少し安くなりませんか」という言葉を絞り出したのだと思っていましたが、
どうやらそれは、読み違いだったようでした。
鶴亀さんは庭で私と別れるや否や、
「5万円出せと言われた。お金を要求するなんて。あの人、怪しい」と私を貶めるような言い方で、
息子さんにぺろっと打ち明け、保健所にも訴えたのでしょう。
保健所はともかく、息子さんはどう思ったでしょう?
「今まで散々ウソを重ねて富士子や私を裏切って来て、今度はカネか…。
サッサと餌やりをやめないから、悪徳ボラの餌食にされるんだ。自業自得だ」と思ったに違いありません。
節度を欠いて、言ってはいけないこと、やってはいけないことを重ね、
動けば動くほど信用をなくしていくことに気づかない鶴亀さんを、哀れに思ったのです。
去年のハロウィンの頃、現場から保護されボラ宅へ入った頃の2匹。
左トリック♂、右トリート♀。生後3か月。
威嚇が激しく、深夜に絶叫し、「怖い子猫キターーー(((゜д゜;)))」とブログに紹介された。
この目つきの悪さは相当なもんだ
であるならば、私がすべきことは明らかです。
私自身は、息子さんにも保健所にも不信感を持たれる覚えはありません。
息子さんの、お母さんへの不信はいかんともしがたいですが、私への不信は解いてもらわなければいけません。
真っ向勝負だと腹を括りました。私は鶴亀さんを見ず、息子さんだけに向かって話しをすることにしました。
「今回、お母様は餌やりをやめると言われました。
今までご飯を頂いて来た庭の猫たちは、飢えればいずれ、この辺りに散るでしょう。
ですが、あの数の猫が散れば、地域は大変に迷惑します。
せめて、増えないように子猫の手術を前倒しにすることと、わずかでも頭数を減らしておくべきだと考えました。
それで、一番小さな子猫2匹を保護して、里親募集してはどうだろうと言ったら、
お母様は、そうして下さいとおっしゃいました。
知り合いの保護ボラさんに無理を言って引き受けて貰うことになり、2匹を保護しました。
けれど、保護と里親募集には、とてもお金が掛かるのです。
保護ボラさんに全部負担させるような、調子の良いことはできません。それで、お母様にカンパをお願いしたのです」
「いくらなんでも、5万円というのは高いんじゃないですか?」
「本当のことを言えば、5万円でも足りないのではと思っています。2匹ですから。
ボラさんの所には、他にもたくさん保護猫がいます。まず、感染症がないか調べないといけませんし、ワクチンも打ちます。
この初期処置だけでも、多分1匹1万円位はすると思います。
里親さんがなかなか見つからなければ、いずれ去勢・不妊手術もしなければいけません。
メスなら2万円以上、オスは1万円近く掛かります。餌代も掛かるし、もし病気になったら、医療費もバカになりません。
この、当面必要な最低限の費用を誰かが出してあげなければ、保護ボラさんは自己負担するしかありません。
最近は、譲渡の時、里親希望者さんにそれまで掛かった医療費を負担してもらうのが普通になってきました。
でも、そのお金は実費であって、保護ボラさんがそれで潤うことなどないのです。
お金が回収できたら、保護ボラさんはそのお金で、次の命を1匹でも多く救おうとします。
それほど自転車操業しながらの活動なのです。
猫は財布を持っていません。
その猫に関わったいろんな立場の複数の人たちが少しずつお金を出して、そこにボランティアが労働奉仕を上乗せして、
命のバトンをかろうじて繋げているんです。それが今の愛護活動です。
そこに、餌をやっていた人が懐も傷めず、調子よく誰かに丸投げして、
保護できて良かった、数が減って良かったなんて、善行を積んだつもりになるのは、おかしいと思うんです。
せめてなにがしかのカンパを出して、その猫の一生に参加して、地域にも発言権を持つ。
カンパを出すということは、そういう意味があると思うんですよ」
遊ぶトリック。男の子らしく、次第にボラさん命の甘えん坊になった。
しかし、この時期続々と保護される乳飲み子に焼きもちを焼いて、
際どいところにバカしょんを連発するように…。
トリック、卒業がますます遅れるよ
息子さんは固い顔をして黙りこくっています。そこで、私は方向を変えました。
「飢えた野良猫を食べさせてやろうと思うのは、人間として当たり前の、優しい感情だと思うんです。
でも餌だけ与えて手術をしなければ、子猫はどんどん生まれます。
すると、軒下や物置で生まれた子猫をポイポイっと手づかみで拾って袋に入れて、
ゴミに出したり、愛護センターに持ち込んだりする人がいるのです。
持ち込まれた命は、わずかの期限で殺処分されます。
今、それはおかしいだろう、そんな国で良いのか と言う人が、たくさんいるんです。
だからみな、自分にできることをそれぞれにやるのです。
センターから子猫を引き出して、母親代わりで育て直して、里親募集をする人がいます。
私のように、地域を回って野良猫の手術の手伝いをする人もいます。
7月に、お庭の猫を私が捕まえるために走り回っていたのをご覧になっていましたよね?
この区は、繁殖制限手術が野良猫問題解決のカギと位置付けてますから、手術代を助成してくれます。
本来は、餌を与える人が自分で捕まえて手術をしてやるべきなんです。そんなのはやろうと思えば誰にだってできるんですよ。
私は、体力にモノを言わせてそれを手伝っているだけです。
でも、本当を言えば、それだって結構な負担をしてるんですよ。
今まで、私がガソリン代だなんだと言って、1円でも請求しましたか?
今回の5万円だって、私の懐には1円だって入りません、全部保護ボラさんに渡します。
自分の生活と帳尻を合わせて、時間をやりくりして、どこへでも出向いて、労働奉仕する。それが私のやっていることです。
それでもイイんです。私のやってるのは、ボランティアなんですから。私は自分のポリシーでやってるんです。
こちらの庭の猫全部に手術して、もう増えなくなった猫を鶴亀さんが大事にして、ご家族がそれを理解して、
少しでも穏やかに、仲良く暮らせますように。…私が願って来たのは、それだけです。
でも、そこまでやってもなお、当の鶴亀さんから、信用できないと疑われる…。
心外です。はっきり言って、今回はガッカリしました。 謝って頂きたいです」
最後の一言を言うのは、結構勇気がいりました。
勢いに乗って、抗議の言葉をガツンとぶつけたかったのですが、精一杯の言葉がこれでした。性格が邪魔をしました。
ところが、意外なことが起こりました。
息子さんが「そうでしたか…。疑ってすみませんでした」と、ギクシャクと私に頭を下げて見せたのです。
単純に、ぼったくりじゃあありませんと言えば良かったんだ… と気づいたら、
言葉を選び、愛護事情まで話を広げて必死に長話をした緊張が一気に解けて、膝が崩れ落ちそうになりました。
息子さんが頭を下げたのを見て、身の置き所のなかった鶴亀さんがそそくさと母屋に戻って、財布を持ってきました。
そして、「2万円なら…これでも良いですか?」と恐る恐る私に差し出しました。
私は息子さんに、「お母様から2万円お預かりしてもよろしいですか?間違いなく、保護ボラさんに全額お渡しします」と了承を得ました。
こうして、狭い事務所で行われた奇妙な三者会談は、
私だけが喋りまくり、力尽くでねじ伏せた格好で、何とか終了したのでした。
どういうワケかこのゴミ箱がお気に入りのトリート。なかなかの面構えをしている。
現在は家猫修行のやり直しで、トイレを使う練習をするため、ケージに逆戻りさせられているらしい。
トリックと言いトリートと言い、生後間もなく母猫と離された子猫たちとは違う、強烈な個性がある。
それを、猫らしいと愛してくれる、運命の人との出会いが待たれる
子猫の初期処置は2匹でちょうど2万円掛かりました。
私はそれを自分で支払いました。そして、鶴亀さんの2万円に少し上乗せして、保護ボラさんに「保護主さんからです」と手渡しました。
自分ではそんなつもりはなかったのですが、保護ボラさんは、「何だかsakki さん、嬉しそうだね」と言いながら、
子猫を連れて帰りました。
私はぼうっと後姿を見送りました。忙しい1日でした。
本当は、「どうせ餌やりをやめるんだから、毎月使っていた餌代のつもりで、1000円ずつでもsakki さんに返しなさい」とか、
「ボクが立替えるから、きっちりお支払しなさい」とか、内心、息子さんのファインフォローに期待していたのですが…。
まあ、そううまく行くワケもありません。
でも、今回の一件で鶴亀さんを以前のように信用することができなくなった私にとって、他の家族と繋がりができたのは収穫でした。
今後、鶴亀さんのことで何かあったら、一緒に考えることができます。
高齢者の餌やり問題と向き合う一番のキモは、家族をちゃんと巻き込むことです。
家族が当事者意識から逃げている限り、解決はあり得ません。
しかし現時点では、息子さんにこれ以上踏みこむつもりはないようでした。事務所を出る前に、探りを入れてみたのです。
「お母様の餌やりでご家族がお困りなのは分かります。
でも、お母様は庭に来る命を守ることが自分の生き甲斐だ、自分はそれで元気にしていられると、以前私に言っていました。
その気持ちを汲んであげるのは無理でしょうか?
お母様がルールを守って、条件付きで餌やりをする。それを、ご家族皆さんがちょっと我慢して容認する。
ご家族それぞれが心穏やかに暮らすためには、それが一番賢い選択のように私は思うんです。
差し出がましいですが、私から富士子さんに、そのつもりはないかどうか聞いてみてはいけませんか?」と言うと、
「いえ。富士子は猫を見るのもイヤだと言ってます。お袋に散々ウソをつかれてますから、今さらそれは絶対ないでしょう。
お袋が餌やりをやめれば、それで済むことです。富士子には話さないでください」と言われました。
原点に戻って、もう一度母親の気持ちを考えてみようと息子さんに思わせるほどの力は、私にはなかったのです。
しかしやがて、猫嫌いのお嫁さん・富士子さんの方が、思いがけない変化をして行きました。
…それは、まだまだ先の話です。 現場には、またしても別の事件が起こります。
遊歩道の現場は、ほとほと、頭の痛い現場でした。 (続く)