トミ黒(とみくろ)の口腔底にできた異物の正体を調べるために、太い針を刺して患部の細胞を採取。
その検体を培養し、細胞の組成を調べて病理診断するラボに出すことになりました(→「宣告前夜 」)。
「結果が出るのに1週間位かかります。
その間、膀胱炎の薬を出しますから、1日2回、飲ませていて下さい。結果が出たら、こちらから連絡します」と院長に言われ、
ニューキノロン系の抗生剤(多分バイトリル)と消炎酵素剤のノイチームを処方され、ぼーっとしながらG動物病院を後にしました。
まだ、ガンと決まったわけではありません。
でも、「顕微鏡を覗いたらそれらしき細胞が見えました。多分、扁平上皮癌だと思います」と言われたのですから、
尋常でいられるハズがありません。
この日、10月30日。トミ黒は「ガン宣告」を受けたのです。 …私にとっては、それと同じことでした。
家に帰ると、トミ黒は「えらい目に遭った」と言わんばかりにキャリーを出て布団の中に籠城。
けれど、2時間ほどして様子を見に行くとケロッと出て来て、フードを食べました。
オシッコも出ました。猫ジャラシでも遊び、ベランダに出て外気を吸いました。
この夜のトミ黒は、宣告を受ける前と、少しも変わりませんでした。
ところが、翌朝から事態は一変しました。
まったく食べなくなってしまったのです。だるそうで、元気もありません。食べないから、ウンチも出ません。
ベロの下は、昨日から真っ赤になっていました。
それが、時間を追うごとに赤黒くなっていき、生々しい異物となって腫れ上がって来て、
まるで、皮を剥いだカエルが喉につかえているかのように見え、私は不安になりました。
原因は、明らかに穿刺でした。刺したところが痛むのでしょう。口を開けたがらず、フードはおろか、水も飲もうとしません。
「針を刺して組織を取った時に、内出血したのでしょう」と後に院長に言われましたが、
針を刺したことで、ガン細胞が一気に活性化したのではないかと疑い出すと、生きた心地がしませんでした。
とにかく、手を尽くして食べさせなくてはいけません。
空の胃に薬を入れるわけには行きませんし、
第一もしガンだとしたら、食べないまま体力を落とし、免疫力を低下させるようなことは絶対に避けたいと思いました。
嗜好性の高いゆるめのウェットで誘うと、布団から出て来て食べ始めました。カリカリにも飛びつきました。
気怠くて動く気になれなかったのでしょう。でもお腹は空いている。それを思い出した様子でした。
ところが、カリカリをうまく口に運べません。
個体によって食べ方が違いますが、トミ黒はベロで掬い取って食べるタイプです。そのベロが、うまく動かせないのです。
拾っては落とし、また落として、結局10粒も食べないうちにやめてしまいました。
疲れてしまって、食べること自体を諦めてしまうのです。口内炎が酷くなった猫にも、よく同じ現象が見られます。
「食べるのが下手な猫用の食器」その1
陶器で、底にデコボコがあってカリカリが逃げない。なかなか優れものだが値段が高い
その日のうちに、私はあちこち自転車で走り回り、
食べやすさに配慮した給餌皿を2種類と、高さのある給餌台を急いで用意しました。
ガン細胞の増殖を妨げるというサプリも取り寄せて、飲ませ始めました。
やはり持病のある飼い猫の介護をしている相棒が、私の心の浮き沈みを細やかに把握してくれて、
すかさず、良質で嗜好性の高いウェットを見繕って、持って来てくれました。
ウェットは、幅の細いスプーンを使って口元に運びます。
こうすると、ベロを使うより両あごで噛みつくような食べ方の方が効率が良いので、食べ方を自然に矯正できるのです。
カリカリもカロリーの高いものに切り替え、食餌の回数を増やしました。
体重の減少をなんとしても最小限に抑えようと、かつて公園猫を看取った時の経験を総動員で当たりましたが、
突然介護生活に引きずり込まれてしまったようで慌てていました。
「食べるのが下手な猫用の食器」その2
手前に傾いていて、底面積が狭くなっているため、カリカリが集めやすい。
その1とその2のドッキングしたもの(内側にデコボコがあり、底面積が狭いもの)
があれば最高なのだけど…。
でも給餌皿を変えたおかげで、格段に食べやすくなった
1日2回の投薬がまた、憂鬱のタネでした。
フードを食べ始めたのを見計らって、後ろから頭を保定して下あごを開けるのですが、ただでさえ口が痛いトミ黒はとても嫌がって、
薬が放りこまれたのをきっかけに、食べるのをやめてしまうのです。
憂鬱だったのは、不器用で投薬に手こずったからだけではありませんでした。
検査の結果が出るまでの1週間を、膀胱炎の薬だけ飲ませ、ガンに対して無策で過ごすことが、とても苦痛だったのです。
猫の1週間は、人間の何か月に当たるのだろう? その間に、ガンはどれ位進行してしまうのだろう?
そう考え出すと、この時間が無為に思え、腹立たしくてなりませんでした。
ガンがまだ切除できる段階だったとしても、口の中です。場合によっては、下顎の一部を取る可能性だって、ゼロではないでしょう。
けれど、たった2か所針を刺しただけで、これほどの影響が出たのです。
それを考えると、ガンを切除した後、一体どうやって食べるのだろうか? と絶望的な気分になりました。
食道や胃にチューブを通して、そこから栄養を入れる手もあるでしょう。
でもそれは、トミ黒にとってはストレス以外の何者でもないでしょう。トミ黒は、どう受け止めるでしょうか?
切らずに、自己免疫だけでガンと共生する覚悟をするのもひとつの選択です。
ガン細胞もトミ黒の一部として受け入れて、押したり引いたりして毎日を過ごすとしたら、一緒に居られるのはどれ位なのでしょう?
やがて自壊が始まって、ガン細胞とともに天に召されていくまでを、心を籠めて私がサポートする。
その方が、トミ黒の尊厳を守れるようにも感じました。
…まだガンと決まったワケでもないのに、私の頭の中は空論が渦巻いてはち切れそうでした。
一体、何でこんなことになってしまったのだろう? 検査の前日まであれほど元気だったのに。
穿刺なんて、しなければ良かったんだ…
本末転倒の屁理屈をこねて成り行きを恨み、自分を責め、自ら苦しみを深め、私はバカになり切っていました。
穿刺から5日目、ついにトミ黒の口腔底の赤味が引き始めました。
痛みが取れて来て、手こずりながらも粘れるようになり、食べる量が増えました。
久しぶりに、たっぷりのウンチも出、派手にえづいて特大の毛玉を吐きました。
深夜、PCに向かう私の膝の上で、トミ黒は安心し切って寝こけていました。自分に何が起こっているのかなど、興味もないようでした。
愛しいトミ黒…。あなたの身体の中で何が起きているんだろう? 私は、どうしたら良いんだろう?
心の中は悶々としていましたが、トミ黒のつやつやした背中を撫でていると、心が落ち着きました。
膝で感じる重さと温かさがそのまま、トミ黒の「いのち」なのだと感じました。
私を半狂乱に陥れたトミ黒自身が、「大丈夫だよ」と、私の背中を撫でてくれているように思われました。
PC作業をする横で寛ぐトミ黒。どんな時でもこの姿を見ると穏やかな気持ちになれる。
トミ黒は私の精神安定剤だ
金曜日のお昼頃でした。院長から電話が入りました。ついに、運命の細胞診の結果が出たのです。
「その後、どうですか?」と聞かれたので、
「オシッコはちゃんと出ていると思います。
口の中は赤黒く腫れて、食べられないし元気はないし、あれから生きた心地がしませんでした。
でも一昨日あたりから少し食べられるようになりました。
口の中も針を刺した痕が赤く残っていますが、他は普通の色に戻りました」と言うと、
「治っちゃってませんか」と聞くではありませんか
はあ 意味がまったく分かりません。なに言ってんの
院長は少し興奮しているようでした。
「細胞診の結果が、ガンではないかもしれない、と出てるんです。一度連れて来て下さい」。
その日の午後、一番乗りでトミ黒を連れて行くと、院長はトミ黒の口を開けて何度も患部を触り、
「うん 小さくなってる! よし」と繰り返しました。
それから院長は私に1枚の紙を手渡しました。「細胞診診断書」でした。
とても専門的な内容でした。
前半は、トミ黒の患部から取った標本中に、どんな細胞が、どんな状態で見られたか、事細かに書いてありました。
その細胞構成と状態は、ただちに腫瘍性と判断されるものではなく、肉芽腫形成と肉芽腫性炎を示唆している。
原因としては慢性細菌感染、真菌、および異物が挙げられる、と結論付けていました。
そして最後に、「診断 軽度の好酸球湿潤を伴う化膿性肉芽腫性炎」 とあり、
「まずは抗生物質に対する反応を観察し、反応が見られないようであれば組織生検を検討すべし」 と結んでありました。
私はあっけに取られました。
扁平上皮癌は知っていましたが、肉芽腫のことはよく知らなかったために、喜んでよいものか、わからなかったのです。
後に、この難しい診断書を読み解くために、私はあちこち調べまくりました。
体内に侵入した原因物質と闘うために炎症を起こした患部が盛り上がり、肉腫のような体裁を示すことがあります。
その炎症を肉芽腫性炎。そして盛り上がった肉腫を、肉芽腫(にくげしゅ、にくがしゅ)と呼ぶそうです。
ガンのようにどこまでも広がって無秩序に組織を壊して行くことはありませんから、ただちに命に関わる病気ではありません。
けれどできた場所によっては、食べられない、呼吸がしにくいなど、著しくQOLを下げ、結果生命活動を脅かす場合があります。
特に、口腔内は発見しにくい。
だから、食べるのが遅くなった、下手になった、毛玉の吐き方が変わった、ベロが寄っている、などと感じたら、疑う必要があります。
私がトミ黒に感じた小さな変化は、まさに隠れた異常を物語っていたのだとわかりました。
診断書と医学書を引き比べて読み解いてみれば、実によくできた診断書でした。
過去に何度か細胞診をしていましたが、これほど明解なものは初めてでした。
診断書の最後には診断医の個人名が記載されていました。私はこの方に感謝しました。
「針を刺した部分に、ガンの細胞は見られないという結論です。まあ、場所が違えばわかりませんけれどね。
この診断書通り肉芽腫で、その原因が細菌感染であれば、
膀胱炎のために出した抗生剤が、こっちにも効いてんじゃないかと思ったんです。
まあ、最初からその可能性もあると思って処方したんですけどね」と院長は言いました。
電話口で院長が興奮気味に言った「治っちゃってませんか?」の意味が、やっと分かりました。
「最初からその可能性もあると思ってた」 ってか あの興奮した声色からは、そうは思えませんでしたけど。
それに、「それらしきもの(ガン細胞)が見えた」って、言ってたよね?
…つっこみたいのを、グッとこらえました
「うん、うん。小さくなってますよ。
抗生剤に感受性があったということです。多分ガンではないでしょう。でももうしばらく、抗生剤を続けましょう」と院長は言いました。
あの時たまたま膀胱炎を併発したおかげで、
診断書に示された3つの事柄が、1週間めのこの時点で、既に明らかになっていたのです。
つまり、①抗生剤に対する感受性があり、②おそらく細菌感染によるもので、③ガンではなく、化膿性肉芽腫である。
ガンに対する無策を恨みがましく思いながら、膀胱炎対策の抗生剤を半ばやけになって飲ませた1週間。
この1週間には、ちゃんと、意味があったのです。
その間、自分で勝手に浮き沈みして大騒ぎしたことを思うと、滑稽でした。
まさに、「膀胱炎、さまさま」でした (G院長もありがとう!)
「まったく、何を騒いでいるのやら」と言いたげなトミ黒。 …って、一体どこにどんな菌を飼っているの?
診断が出たのは11月6日です。ガン疑惑が幻だったことを、すぐお知らせしなかったことをお詫びします。
けれど、それ以降もトミ黒の不調は続き、晴れ晴れとした気分にはなれなかったのです。
今も、毎週金曜日にトミ黒を通院させています。
口腔底の肉芽腫はほぼ消滅し、今回の騒動での体重減少も100グラムで済みました。
しかし4回目の受診の前に、トミ黒は激しく嘔吐し、薬もろとも食べたばかりのフードをすべて吐き戻し、胃液を吐き、
挙句泡立てたシャンプーのようなものを吐き続けました。実に40回も、尋常でないえづき方を繰り返したのでした。
私は自己判断できっぱりと投薬を中止。
3週目の半ばから感じていた食欲不振が、バイトリルによる副作用ではないか?と疑っていたからです。
院長にそれを報告すると、バイトリルはまれに食欲不振と嘔吐を引き起こすと言って、代わりにコンべニア(長期抗生剤)を注射しました。
細菌炎症を甘く見てはいけない。耐性菌ができないよう徹底して叩く必要があるということは、私には体験的に理解できました。
考えてみれば、トミ黒が異常を示したのはこの3年で3回目です。
一度目は保護のきっかけとなった左目周辺の炎症。二度目は犬歯奥の炎症。そして今回です。
彼の頭蓋骨の中に、何かの拍子に暴れ出す常駐菌が住んで居るのでは?という感覚は、疑いようがなくなりました。
それがあるので、ガン疑惑が晴れても、手離しで喜べなかったのです。
でも、だとすれば、トミ黒をあの時、公園から我が家に迎えたことは、大正解だったのだとつくづく感じました。
袋に入れられた子猫が何度もゴミ箱に棄てられていた2003年当時から比べると、今の猫崎公園は天国のようです。
猫をいたぶる人など誰もいません。
けれどもしあのままトミ黒を猫崎公園に戻して、肉芽腫に冒されていたらどうなっていたでしょう?
それを思うと、私の元へ来てくれて本当に良かったとしみじみ思うのです。
猫は過去のことを話しませんが、その背後にそれぞれの歴史を持っています。
保護猫であれば、飢えて彷徨う経験や、命の危機があったかもしれません。
ショップから迎えた猫にだって、飼い主が知らない歴史があるはずです。
そういうパラレルな猫生を思うにつけ、
1匹の「自分の猫」と暮らすことは、何かの采配による、奇跡の巡りあわせなのだという思いを強くします。
私がトミ黒と出会ったのも、まさにそれだったのでしょう。
そして、猫には人より短い生が運命づけられています。明日、別れが来ることだってあり得るのです。
腑抜けのようにトミ黒の命の限界に怯え、バカになってうろたえたからこそ、
トミ黒と暮らす平凡な一日がどれほど幸せなものであるか、実感できたのだと思います。
「幻のガン疑惑」に、感謝しなければいけません。
トミ黒は今年12歳、立派なシニアです。すでに下降線に入っていると考えるべきでしょう。
でも、どんなことが起こっても、私が目になりセンサーになり、寄り添う。
最後の瞬間まで、彼を大事にしたいと思います。
できれば格好悪い大騒ぎをしないようにしたいのですが。
こればかりは、多分ムリですね。
みなさん、毎度お騒がせしますが、どうか、お許しを。 「トミ黒の口の中」 完