さて、前回は例幣使街道に固執する話でしたが、それは市東部の話で西部はとなると県道どころか橋が無くなっていたり寺岡元三大師付近では県道から格下げ?になっていたりします。




1987年


1996年

花岡付近の例幣使街道にかつてバスが走っていたのも驚きですが、多田木町付近ではいくら田んぼの区画整理の為とはいえ天下の例幣使街道を付け替えてしまうなんてねぇ。
このあたりの人はあまり例幣使街道にいい思いがなかったのかな?

そういえばこの道はいつから例幣使街道と呼ばれているのでしょう。
迅速測図に例幣使街道の文字がありますのでそりぁもう古くからなのでしょうが、地元民自然発生なのか幕府または朝廷または明治政府がそう名付けたのか?

という事で前回も載せたこの地図。



両毛線上に数字とかがふってありますがこれは踏切です。
佐野市で例幣使街道が両毛線を渡るのは(街道の方が古いから、両毛線が突っ切ているのは、かな?)4か所あります。
そのうち「」の踏切がすばり「例幣使街道踏切」です。
では赤は「第二例幣使街道踏切」かと思いきや「第二佐野街道」踏切です。
じゃ緑が「第二例幣使街道踏切」なんでしょ、という事も無くて「第一足利街道踏切」なんですね。
で、緑が「第二足利街道踏切」です。
両毛線のこの辺りが開業したのは1888年。踏切もその時出来た思われますのでその当時からこの名称だとするとその頃のこの道の正式名称は佐野以東が「佐野街道」、以西が「足利街道」だったのでしょうか。
今もそうですが「例幣使街道」はあくまでも通称であって正式には県道〇〇号、市道○○線なんでしょうね。
道に番号を付けて管理し始めたのがいつかはわかりませんが、それ以前もやはり殿様でも地方豪族でも領地や所領を管理する上で道路に公式な名称が必要だったのでしょう。
もっとも佐野街道や足利街道も通称であって鉄道会社がそれを踏切名につけたという事もあり得ますね。

ところで両毛線には「第二佐野街道踏切」はあるのに「第一佐野街道踏切」がありません。
佐野街道が例幣使街道の別名だとするとこの先で例幣使街道が両毛線と交差するのは栃木駅の近くなので、そこが「第一佐野街道踏切」だったのでしょうか。この踏切は栃木駅高架によって無くなっています。
一方、「足利街道踏切」は
「第一足利街道踏切」
「第二足利街道踏切」
「足利街道踏切」
「第五足利街道踏切」
とあり、「第三」と「第四」の名がありません。
足利街道にはすばりの「足利街道踏切」がありますのでもしかするともしかすると例幣使街道をたどる栃木県道11号の「第一佐野街道踏切」であったかもしれない踏切が「第〇例幣使街道踏切」で現在は栃木市内メインバイパスの県道309号片柳跨線橋(1973年完成)部分に「第一佐野街道踏切」があったのかもしれません。
ちなみに、「足利街道踏切」はその旧道から推測するに両毛線との交差は5か所なのですばりの「足利街道踏切」はおそらく「第四」に相当するものでしょう。
そして「第三」はフラワーパーク近くにあって1960年に多田木跨線橋(地図中緑)が完成した事により姿を消したのでしょう。

現在、例幣使街道の名は観光材料に使われることが主みたいですが、ちょいと昔は普通に使われる道路名で、まだ田舎道で通る車も少なく、夜ともなれば「あ、珍しく車が通ってる」レベルだったその道が栃木県道128号が認定されたのは1961年です。
でもだれもそう呼んでいるのは聞いたことがなく、明治生まれの私の祖父も例幣使街道と呼んでいました。
行政は番号で区別するのが楽なのでしょうけど、やはり番号主体では味気ないんでしょうね。
道も人も。


第三足利街道踏?切付近を走る両毛線