その10 その日は突然に



日々のブログからは逸脱しますが、ずっと書き溜めて下書き保存にした記事があります。


あまり良い内容ではないのですが私が今の場所に住むことになるまで。


ようやく気持ちの整理がついてきたので少しずつ推敲しながら公開していこうと思います。



2015年10月24日午前4時36分、姉が旅立ちました。

その日の朝も体調が優れないと言っていたものの、「来年は年賀状を出さないと」と普通の会話を交わしました。午後には「年賀状の文面決まったよ」というメールも受信。



それがその夜、同居の父親からの電話で事態が一変。
嫌な胸騒ぎがしましたが「来る時が来た」と腹を括りました。

駆けつけてみると素人の私にもわかる状態で救命措置を受けていました。目は見開いたままでチアノーゼ状態、手足がバタバタと動いていました。

「てんかんが抑えられません。脳に酸素が行きません。多臓器不全を起こしています。」という医師の説明から「もう手の施しようがないんだな」と悟りました。
白血球の異常な上昇、アンモニア値の上昇、血圧の低下など細かなデータの説明がありましたが、「前回のくも膜下出血では1/3の確率(生還・脳死・死亡)と言われましたが、今回はどうなんですか?50/50?」と投げかけてみました。全員が腹を括らないといけないからね。

医師は「50/50、良い方の50だとしても正常には戻りません。無酸素状態が長いので脳幹は機能を失います。そして間もなく心停止になりつつある状態です。できるだけのことはします」と。

医師の説明後、「お父さん、もしいい方の50に入ったとしたらどうする? 延命治療のこと考えとかなあかんな。冷たいかもしれんけど、前回みたいに望みがあるなら協力は惜しまへん。でも先が見えないなら無理」と言いました。
すると父親も「もう無理はせーへん」と。
とにかく1年前から今日までが大変だったのです。
逆に言えば一年前がなければ逆の結論が出ていたかもしれなかったかも。
父親を説得するという労力は消費せずに済みました。

その後、瀕死の姉と対面。
医師の「明日の朝10時にお会いしましょう」という言葉で日付が変わってから一旦病院を後に。
「10時まで持つわけがない、下手すりゃあトンボ帰りやわ」そう思いました。

父親を実家へ送り届けて私達も自宅へ。

旦那と今後についてを話し、明日起こりうることを想定して布団に入ったのが午前3時。
体が冷えてたのもあるけどこの状況下で眠れるわけがありません。

そして忘れもしない3時42分の電話。
「容態が急変しました。どのくらいで到着できますか?」と病院から。
「30分で行きます(から何とか)」と言った後、父親に連絡し慌てて家を出ました。

「どのくらいで到着できるか」って聞かれる時はもう99.9%アウトなんだよねー。
病院に着くとすぐ病室に通されました。
まだ心停止ではなかったけど時折鼓動のある心電図。人工呼吸器が付いてるから辛うじて延命している感じ。
「待っていてくれましたよ」という医師の言葉。
私達が到着して20分もしないうちに姉は逝きました。

不思議と悲しい気持ちにならなかったのは私だけかも。不謹慎と思われてもいいのです。
1年前のあの日、私の中で姉は一度死んでいたから。
もしかしてやり残したことを遂行するために生きていたのかなと。

生還後の姉は魂の抜け殻のようでしたし。