生きていると性格、価値観などが異なる人々と出会う。それが意味するものを「霊界のスポークスマン」、故・丹波哲郎さんの著書『大霊界を見た』の一節から考えます。

 

霊界層は、まことに広大無辺な驚嘆すべき眺めである。キラキラ輝く海のような光が広がり、その無限のなかに人間界の村落のような無数の村むらが何億と点在する。そのひとつが、あなたの村なのだ。その村へあなたは霊人の案内で、何のためらいもなく一直線に帰って行く。

あなたの村で、あなたは住人たちから歓喜の出迎えを受ける。見よ、何と村人全員があなたと何もかもそっくりなのだ。性格、性情、趣味、嗜好、ほとんどあなたと同じといっていい。

だから、村人同士の親密さは人間界の親子の比ではない。人びとは無限の時間をその村で、仲良く、楽しげに暮らすのだ。衣食住の心配もなく、好きなことに専念し、全員が力をあわせ、次つぎと新しいことに取り組みながら・・・。

 

このメッセージは裏を返せば、この世では性格、性情、趣味、嗜好、価値観が異なる人々と出会うということで、それが意味するものは、魂の成長には「異文化」との出会いが必要ということでしょう。

同じ日本人同士でも異文化に触れることがある。その瞬間は相手の文化を受け入れられなくても、自分の思想が絶対的ではないことに気づきます。

 

異文化(価値観の違い)の例として、私は物心ついた時から、親であろうと他人であろうと目上の人には最低限の敬意は払わないといけないことを、無意識レベルでごく当たり前のことだと認識しています。これは人間の基礎となる部分で、他のことにも大きく影響すると思います。一事が万事です。

「親しき中にも礼儀あり」は老若男女問わず基本的な常識であり道徳で、そこに異論の余地はないと考えます。それは普段の言動に現れるし、そうしないのは人生の先輩に対して無礼だと思うから、直ちに改めないといけないとも考えます。

 

成長期の子供ならなおさらそうです。

最低限の礼儀をわきまえる心は、人格形成において最も大切な基礎で、そこから思いやり、優しさ、相手の立場になってモノを考えようとする姿勢、協調性、環境への適応力などが育まれます。

それがないと、学校で身勝手な行動を取ったり荒れたり、「あの教師は怖いからヤバいけど、この教師なら舐めた口を聞いてバカにしてもいい」という考えに陥る。中学・高校に煩わしいと思うような校則があるのは、思春期のうちに秩序を学ぶためです。ですので、型にはめてきちんと分からせる必要があります。

あえて「型にはめて」という言葉を使っています。臨機応変に対応し、子供自身に考えさせ、自由意思にゆだねる事柄もありますが、これに関してはうわべの優しさを捨て、嫌われる勇気を持って、出来るようになるまで教えないといけない。親も含めた私たち大人の責任が大きいと考えるからです。

 

そんな訳で、目上の人は親も他人も関係なく最低限の敬意は払わないといけないという思想で、物心ついた時から一貫しています。

しかし、そう考えない人もいます。 

これはどちらが正しいか間違いかの話ではありません。お互いの持論が「常識」だと思っているのですから。

 

そういった異文化にぶつかった時、想定外の反応が返ってくることがあります。思っていたのとは違う現実。人は様々な場面で自分に都合のいい現実を想定しますが、ある日それがただの勘違いだったと気づかされます。己の人間力が試されるのはそういう時です。

 

私は度量の狭い人間だと自覚しています。だからこそ、そういう時に相手の考えを理解し、自分の誤っていた部分を顧みて、どうプラスに変換できるかがより重要となります。こういうことは多かれ少なかれ、誰にでもあるのではないでしょうか?

もし、この文章の意味や真意が伝わらなかったら、それは相手の理解力がないのではなく、こちらの説明力、文章力がないのだと真摯に受け止めます。これが今の自分の限界です。

聞きたいことがあれば、いくらでも答えますが。

 

この世に生きるというのは、人間力が試され続けるということなんじゃないかと思います。

その果てに、あの世の村に帰還するのでしょう。