†岡田由起子(1967~1986) | オレサマのブログ
30年か~



当時暫くは四ツ谷のサンミュージック前は避けてたな…




岡田 有希子
1984年撮影

愛称 ユッコ
生年月日 1967年8月22日
没年月日 1986年4月8日
没年齢 18歳(数え20)
出身地 愛知県名古屋市熱田区
死没地 東京都新宿区
血液型 O
瞳の色 黒
公称サイズ(1985年時点)
身長 / 体重 155 cm / 44 kg
BMI 18.3
スリーサイズ 86 - 58 - 84 cm
カップサイズ E

活動
デビュー 1983年
ジャンル アイドル歌謡曲
活動期間 1983年~1986年
事務所 サンミュージック
レーベル キャニオンレコード
主な出演作 禁じられたマリコ
主な楽曲 ファースト・デイト、くちびるNetwork
受賞歴 日本レコード大賞、日本歌謡大賞他、最優秀新人賞多数

岡田有希子(1967年8月22日~1986年4月8日)は、日本のアイドル歌手、女優である。本名、佐藤 佳代(さとう かよ)。愛称は「ユッコ」。身長155cm、体重44kg、B86cm(公称84cm)・W58cm・H84cm、血液型O型、視力両目0.1以下。
愛知県名古屋市熱田区出身。名古屋市立高蔵小学校、名古屋市立沢上中学校、名古屋市立向陽高等学校から堀越高等学校へ編入、卒業。サンミュージックに所属していた。1980年代中期に活動したアイドル歌手のひとりであり、「ポスト松田聖子」としても期待されていたが、人気絶頂だった1986年(昭和61年)に飛び降り自殺した。報道に端を発した若者の相次ぐ自殺は、大きな社会問題となった。当時のこの現象を「ユッコ・シンドローム」と呼ぶこともある。

経歴
1967年(昭和42年)8月22日、愛知県一宮市にて、2人姉妹の次女として生まれる。母親が辺縁性胎盤による帝王切開も検討されるほどの難産で、産まれたときは身長47センチ、体重2700グラムの未熟児だった。命の危険があり、脳に重い後遺症が残る可能性もあったが、幸いにも胎児に異常はなかった。1969年、2歳の時に名古屋市熱田区に引越し、上京するまでを過ごす。幼少期は、言語障碍ではないものの「さ行」が全く言えず、先生を「てんてい」、三輪車を「たんりんちゃ」としか話せなかった。親が叱ろうとすると、その前に押入れに逃げ込んでしまい、引っぱり出すのに苦労したという。また、顔の割りに耳が大きく目立つことから「ダンボ耳」とからかわれたため、耳を隠す髪形をしていた。道具を使って工作や組み立てをすることが大好きで、「プレゼントに何が欲しい?」と聞かれ「大工道具セット」と答えている。幼稚園に入ると、姉が通っていたYMCAの体育教室に通い始め、器械体操、キャンプ、スキー、スケートに専念するが、お転婆になると同時に自身の運動神経のなさを自覚したという。
小学生になると描く(書く)職業に憧れ、小学3年生の作文では「画家、漫画家、小説家」を挙げている。特に画家に強い憧れを持ち、YMCAをやめて小学4年生から水彩画を習い始める。このとき母親に「一年経って、先生から才能があると言われたら芸大に進みたい」と話している。小学5年生のとき、朝日新聞社主催の写生大会で入選。小学6年生のとき、熱田神宮の写生大会で宮司賞(一等賞)を獲る。この頃から油絵と日本画も習い、本格的にデッサンから学び始める。中学2年生の夏休みの課題では、大ファンである河合奈保子の肖像画を油絵で描き、中学校内の展覧会で金賞を獲っている。彼女はその作品を河合に送ろうと、本気で考えていた。
その一方で、芸能タレントにも憧れを持つようになる。小学2年生から合唱部に入り、小学6年生の時「部員の一人」として地元のテレビやラジオ番組に出演する。また、同じく小学6年生の時、学芸会の音楽劇『浦島太郎』で乙姫役を演じる。その役作りのために、当時人気があったテレビアニメ『ベルサイユのばら』の主人公の1人「マリー・アントワネット」の話し方や歩き方をつぶさに研究し、さらにマリー・アントワネットの本を買ってきて熱心に読んでいた。この演劇は、校長が走って見に来たほどだった。これらがきっかけとなり、中学生になると『ホリプロタレントスカウトキャラバン』やテレビドラマなど、様々なオーディションに応募するようになる。連続テレビドラマ『中学生日記』(NHK名古屋局)にエキストラとして出演するが、ドラマのチーフディレクターが大切な役を任せようと思った矢先に辞めてしまう。中学2年生の1981年8月、姉が購読していた雑誌『高一時代』(旺文社)に載っていたオーディション『ニコン フレッシュギャルコンテスト』に応募し、準グランプリに選ばれる。写真は月刊誌『写楽』1982年3月号に掲載され、特大ポスターが各所(地元・名古屋では「サカエチカ」)に貼り出されただけでなく、副賞としてグアム旅行も獲得する。中学3年生の1982年の夏休みには、大阪城で開催された『ニコン 中・高生のためのカメラ教室』の写真モデルになっている。しかし、いずれも本格的な芸能界入りにはつながらなかった。

中学3年生の1982年6月、一年前に応募していたオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ)の予選会通知が、中京テレビから届く。彼女は「中学2年生で出場して、中学3年生でデビューする」という計画を立てていたが、1年遅れの通知だった。「出場するなら内申書を書かない」と担任教諭に反対される中、学校を無断欠席して名古屋地区予選に出場。北原佐和子の『マイ・ボーイフレンド』を歌い、決戦大会への切符を掴む。しかし、担任教諭だけでなく祖父や家族にも猛反対されたため、12月の決戦大会出場を断念。ハンストを起こし、食事をせず自分の部屋に閉じこもる。その4日目、見るに見かねた母親が、芸能界入りの条件として「学内テストで学年1位になること、中部統一模擬試験で学内5位以内に入ること、第一志望の向陽高校に合格すること」の3つを提示する。普段から通信簿で並びの成績だったものの、それでもクリア不可能と思われる条件だった。しかし彼女は猛勉強の末、それらの条件を全てクリアする。さらに、地区予選に立ち会っていた芸能事務所『サンミュージック』専務・福田時雄と番組プロデューサー・金谷勲夫が家族へ説得したこともあり、1983年(昭和58年)3月の決戦大会への出場を許された。3月30日、『スター誕生!』の第46回決戦大会で中森明菜の『スローモーション』を歌う。結果は、後日発表されることとなった。

芸能活動
1983年(昭和58年)4月、向陽高校に入学。それからしばらくして、『スター誕生!』決戦大会の「合格」通知が電話で伝えられる。彼女は電話口で絶句し、泣いてしまったという。芸能事務所は『サンミュージック』と『研音』、レコード会社は『キャニオンレコード』と『VAP』の合計4社に指名され、桜田淳子が長く在籍している『サンミュージック』と、田原俊彦が在籍している『キャニオンレコード』との契約が決まった[2]。すぐに東京へ転校することになるため、部活動は他の生徒に影響が無いマネージャーとしてサッカー部に所属。しかしスコアの付け方がわからず、部員のユニフォームを洗うなど雑用の毎日だった。高校生活の傍ら、5月12日から地元・名古屋を舞台にした映画『アイコ十六歳』のオーディションを受けるが、7月11日、最終選考である第五次選考で落選する。ここでは富田靖子(主演)や松下由樹、のちに堀越高校で同級生となる宮崎萬純らが選ばれている。一週間後の7月17日、姓名判断師の沖紘子によって、芸名『岡田晴子(晴は目へんに青)[24]』『岡田佳代子』『岡田有希子』が候補に挙がる。「“晴子”はサンミュージックの先輩・桑田“靖子”と名前が似ている」「“佳代子”は性格的に弱い名前で、厳しい芸能界では負ける」との理由で不採用となり、最終的に「希望を有する」ということで『岡田有希子』に決まった。

8月25日、上京。
サンミュージック社長・相澤秀禎宅(東京都世田谷区成城)に下宿、桑田靖子や滝里美と同居する。滝も『スター誕生!』の合格者であり、岡田とルームメイトとなる。芸能界での目標は「松田聖子や山口百恵のような、日本を代表するトップスターになること」だった。9月1日、名古屋の向陽高校から東京の堀越高校へ編入。向陽高校は一学期だけの在籍だった。堀越高校の同級生には、前出の桑田靖子や宮崎萬純のほか、石野陽子、本田美奈子、倉沢淳美、田中久美、長山洋子、南野陽子、永瀬正敏などがいた。10月16日から、ラジオ番組『とびだせ!ポップシティ』(ニッポン放送)、同『サトミ・ヒトミ・ユキコの何かいいことないか仔猫ちゃん』(毎日放送)のパーソナリティとなり、タレント活動をスタートする。11月18日、東京大学の学園祭「東大駒場祭」に『アイドルニューフェイス』として出演し、チャリティーオークションのアシスタントを行う。12月18日、バラエティ番組『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京)に「報道部のお茶汲みおばさん」役として、テレビ番組に初登場する。
岡田のタレント活動と並行して、「アイドル歌手」デビューの準備が進められた。キャニオンレコードのディレクター・渡辺有三は、岡田のデビュー曲の制作を竹内まりやに依頼。しかし、断られてしまう。竹内が自身のアルバム制作に入っていたことと、ここ数年、他の歌手への楽曲提供をしていなかったためである。そこで岡田が竹内に直談判したところ、竹内はその意気込みを気に入り制作を快諾[33]。デビュー曲候補である『ファースト・デイト』『リトル プリンセス』『-Dreaming Girl- 恋、はじめまして』の「学園恋愛三部作」、『気まぐれTeenage Love』『さよなら・夏休み』『憧れ』の、テーマが「ティーンエイジ・ラブ」である6曲を作詞・作曲する。1983年12月10日、竹内が立ち合う中で初めてのレコーディングが行なわれた。その当時のお互いの印象を、竹内は「お人形さんのようにかわいい子」、岡田は「主婦らしさのない女学生のような、素敵な女性」と語っている。デビュー以降も竹内の楽曲提供は続くこととなり、その数は作詞のみも含めて11曲に及ぶ。それは、岡田が提供を受けた数、および竹内が提供した数、ともに自己最多である。デビュー曲は、1984年1月11日にトラックダウンされた。

1984年(昭和59年)1月10日、
若年男性向け情報誌『スコラ』(スコラ)から、アイドルとして初めての取材を受ける。3月11日、東京の明治神宮絵画館前でラジオ番組のイベント『とびだせ!ポップシティ お菓子フェア』が開催され、アイドルとして初めてステージに立つ。
岡田は観客の声援に驚き、とても感動したという。
3月20日から4月8日まで、交流会『集まれYukikoフレンズ』が名古屋(プリンセスガーデンホテル)を皮切りに全国7都市で開催される。これはティーパーティ形式で、ファンとの交流とステージショーを行なうものだった。3月25日放送の音楽番組『ザ・ヒットステージ』(TBS)最終回、4月14日放送のバラエティ番組『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京)と音楽バラエティ番組『アイドルパンチ』(テレビ朝日)で、「歌手」としてテレビ出演する。
4月21日、シングル『ファースト・デイト』で歌手デビューする。キャッチフレーズは「いつまでも、一緒にいてね。」「ステキの国からやって来たリトル・プリンセス」。グラビア雑誌『BOMB!』(学習研究社)は、名古屋のキャンペーン活動に10時から23時まで、13時間密着取材する。岡田は日産ギャラリーのキャンペーン、中日スポーツ記者からの取材、CBCラジオ・東海ラジオ・FM愛知の番組ゲスト出演をこなしている[38]。歌手デビューしてからは、サンミュージックの先輩・松田聖子と比較され、「岡田有希子は第二の松田聖子」「ポスト聖子の第1候補」と言われるようになる。それに対し「やっぱり自分は自分だから、ホントはあま