2006年9月 結婚して6年目にして待望の赤ちゃんを妊娠。
妊娠11週目に切迫流産の診断を受け1ヶ月仕事を休み自宅で安静にしていました。
妊娠4ヶ月に入ると体調は落ち着いて仕事復帰。
つわりはまったくありませんでした。
前置胎盤気味と言われていましたが5ヶ月に入ったあたりで通常の位置まで上がって一安心したのもつかの間。
6ヶ月に入った辺りから尿蛋白がでて、血圧が少し上がっていました。
大きな病院で検査しましょうと紹介状を書いてもらいちょっと不安に・・・。
紹介状を受け取ったT病院のN先生。
診断書を見て慌てて電話してきました。
あなた体は大丈夫?
この内容だといつ痙攣を起して倒れてもおかしくないから今すぐ病院に来て下さい!と。
うちでは受け入れられないので他の病院を探しますから入院の準備をして来てくださいね。
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旦那いないこんな日では心配なので明日じゃダメですか?と聞いたら、家に一人ならなおさら病院に来て下さい!!と。
まさかこのまま出産になるとは思っていなかったので旦那には連絡を入れずに義父母に病院に連れて行ってもらいました。
レントゲンを撮って血液検査・エコー一通りの検査をしてN先生の診断は・・・
赤ちゃんがとても危険な状態で心音が弱っているのでこのままだしてあげましょう。
他の病院に母体搬送をしている猶予はないのでうちで引き受けますと。
満月の夜中の事でした。
突然の事で何がなんだか分からないままの手術に。
自覚症状は何もなく前日まで普通にフルタイムで働いていた私
ちょうどその前の日から一泊入院で手術を受けていた旦那
手術を終えて寝ていた旦那の携帯に病院から奥さんの手術を今から行います。
口頭でかまわないので承諾をしてくださいと言われたそうです。
旦那もさっきまで元気に付き添っていた私に何が起きたのか訳が分からずとても驚いたそうです。
でも母子共に助けて欲しいと先生にお願いしたそうです。
そして・・・
2007年2月 544gの超低体重出生児の女の子を出産しました。
手術中ずっと震えが止まらなくて手を握っていてくれた男の先生
赤ちゃん出ますと言ったあと『フギャー』と小さなでも元気な産声が聞こえました。
しばらくして女の子ですよと看護師さんが見せてくれた、我が子・・・
手のひらに乗ってしまうほど小さな赤ちゃんでした。
そのまま赤ちゃんはNICUに運ばれ私は病室に戻っても震えが止まらず長い夜を過ごしました。
朝旦那が病院に来てくれた時涙があふれてきて、何度もごめんねと謝ったのを覚えています。
小児科のM先生は一日に何度も赤ちゃんがんばってますよと、面会にいけない私の為に病室まで足を運んでくれていました。
赤ちゃんはそれだけ、いつ何が起こってもおかしくない状態だったのです。
そこから長いNICU生活が始まりました。
詳しくはこちらから 544gの宝物