無意識とは何か ― ユングが伝えたいと思ったと思われること ― 7 | いろは

これまでの本シリーズにおいて無意識とは何かについて、それなりにご理解いただけたと思います。無意識を可視化するとユング派においては個人的無意識と集合的無意識に区分されます。集合的無意識とは元型イメージが集合的に集められた層であるから集合的無意識となります。普遍的無意識とも翻訳されることもありますが、これは間違いではないにしても、正答ではないと私は考えております。なぜなら、集合的無意識の層にはいくつもの元型イメージが「格納」されており、すでに宝箱のように元型が詰め込まれていると解釈しているからです。こうなりますとやはり普遍というよりは集合的であり、人間という集団で生きていくにはある程度の集合体としての普遍性を保つことが必要ということからも集合的無意識とするほうが的確であるように思われます。では今回はどのような話にするかですが、このシリーズを経営の現場に応用していくための準備を行っていきたいのですが、その序論的な論文にしようかと思います。

 

ユングの功績としてもっとも認知されているであろうことはやはり無意識を分けたことでしょう。無意識の存在を認め、それをさらに深化させたことです。この区分原理となったのがリビドーであり、このリビドーの流れ方がフロイトのものとは違い、これが彼らがセパレートになった原因であることは有名であります。しかしこれ以外に評価しないといけないことも多いかと私は個人的に思っております。ユングは常に人間の心の「光と影」について論じてきました。つまり、光があれば影が「絶対に」あることを証明してきました。これを応用すると、ユングが発表したこと、しなかったことがありまして、その陰の部分(発表しなかったこと)を現代の心理学者は考えていかねばならないのではないかと思います。これを企業を例にして考えてみます。

 

組織においては常に上司と部下との関係があります。これに異論を唱える人は少ないかと思います。上司がいて部下がいる組織ではない組織に属している企業人はどれほどいるでしょうか。社長が一般の従業員と同じ立場であるとか、全従業員が社長である企業は存在しないわけではないでしょうけど、実際にどれほどまでに組織として機能するかについて疑問です。また、個人事業の開業や法人の設立、つまり、会社という組織においてはヒエラルキー抜きの組織は禁じられておりますので、まず、会社にて就業している人は100%の確率で上下関係の組織の中で活動していることをご理解いただきたいです。また、中国哲学の領域ではこのような組織は2,500年前から整備されており、それは孔子が整えたとされております。つまり、思想的には儒教思想のものであります。それが西洋でも取り入れられていることをみると、古代中国の思想なるものは非常に普遍性が高いものと思われます。しかし、古いがゆえに、ここに元型のヒントとなるものを見ることもできるのではないでしょうか。

 

会社には必ず上下関係があります。そこで理想とされるのは「よき部下とよき上司」であります。常に両者とも「いい人」であることを求められます。心理学的に翻訳すると、「いい人というペルソナ」を身に着けることになります。どうですか、皆様方。いい人という仮面をつけないと現代の会社ではサバイバルできないわけです。しかし、いい人というペルソナの裏は「悪人」がいるわけで、過度のペルソナを求めることは悪人を歓迎するようなものであり、そのような組織は崩壊する可能性が高いのではないでしょうか。中国の荀子はこの点を鋭くつき、儒教における中庸の在り方の重要性を説きます。しかしながら、私は荀子の全ての意見に賛成をするわけではなく、荀子は中庸思想を理解しやすく世に放った点を高く評価しているにすぎません。この点をどうぞご理解ください。

 

つまり、ペルソナは人間にはなくてはならいものであるのですが、それを突き詰めると裏の部分が露呈し、崩壊へと導かれます。これはペルソナに限らず、他の元型についても当てはまります。それでも会社でいい人を演じ続けますか?という私からの疑問であります。ユングの症例の紹介は全て状態が悪くなったものであるのが特徴であります。例えば、アニマが出すぎて女性化した男性が来院したという状況から話が始まります。これがバンドで話をすれば、バンドはアニマ・アニムスを発展期の第一段階目として必ず通らなければならない道であります。この時に男性のミュージシャンがアニマを出しすぎたがゆえに本当に女性化する事例が多々あります。元々はそれは良いことだと思い、そして精神的にも通常の人間であったはずのバンドマンが、アニマに目覚めて女性化するプロセスには光が当たっていないのです。しかしこれは意図的にそうしたのではないかと思います。ユングは医師あったことが大きな原因であると思われます。つまり、治療することが最優先されます。それゆえに、スタート時点はあくまでも悪くなった時であり、それ故に論文として発表するときもその時点のことから発表することになり、私が行っているような「予防心理学」のようなことは意図的に飛ばしたのではないかと予測しております。ですから、本当は主張したかったものの、当時の学会はそのようなことを認めないこともあり、結果としてスタート時点から個性化に至るプロセスを重心におき、スタート時点より前のことを見ていくことまでは発表しなかったのではないでしょうか。つまり、ユングとしては気づいていたけれども、それを発表しなかっただけであると私は考えており、その部分を私が研究対象としております。

 

人間には必ず表と裏があります。必ずです。確率的には100%です。そしてそれがあるから人間であります。これを応用すると、本当の癒しとは、悪いことも含まなければならないと思われます。人間の意識的な部分のみで都合のいいことをするロボットに真の意味での癒しを与えることができるのでしょうか?私は疑問に思えてなりません。そこに癒しを求めるとするならば、いかに人間は無意識の存在を意識できていないかを物語る事実であります。無意識とは本を読んで理解できるものではありません。だから無意識なのです。簡単には理解できません。会社でいい人を演じるなというのか!!というクレームもあるでしょう。では、あなたは会社でも家庭でも、生きている全ての環境の中で、死ぬまでいい人であり続けることができますか?会社ではいい人でも家庭では悪人となるのですか?もしすべての環境でいい人を演じられたとしても、誰かがその影を背負うことになり、結局はどこかで悪人となってしまうのです。例えば、自分の子供が生き仏とされる実の親の影を背負い大きな犯罪を犯した時、親としての責任を問われることになります。生きるとは難しいことです。

 

今後はイメージや象徴などの概念の解説も行いながら、夢の話なども行い、経営の現場で心理学をどのように導入していけばよいのかについて話を変えていこうと思います。

 

ご高覧、ありがとうございました。