無意識とは何か ― ユングが伝えたいと思ったと思われること ― 22 | いろは

前稿ではリビドーを論じました。リビドーとは論者によっては様々な概念へ変化するのですが、ユング心理学では心的エネルギーといいまして、そのエネルギーの原発は性的なものではなく、心の動きが自然派生的にあるところへ向かうことを意味します。これがフロイトのリビドーと大きく異なる点であります。そして彼らはこの件で決別したのでした。

 

リビドーと本ブログとの関連でいえば、本ブログにおいて他の論文を閲覧数で圧倒的に高いものがあります。それは私がかつてグレーナーモデルについて論じたシリーズであります。あのシリーズの良さがいまだによくわからないのですが(論者である私がいうのもおかしな話でありますが・・・)、本ブログは私の専門であることを自由に論じていくことがその理念であり、事業ドメインであります。ですから経営学のことを専門的に論じることもありますし、心理学のこと、中国哲学のことも専門家でありますので専門的に論じていきます。その中で本ブログの性格を決めていくものとしてグレイナーモデルの論文がありまして、これは誰が決めたことでもなく、自然発生的にそのように方向づけられておりまして、その意味では私の意思とは別に、経営学のブログとしての色が非常に強いわけであります。例え私がこれに反発しようとも、その流れをかえることは不可能であり、したがって、三種の専門分野のハイブリットであると私が反発したところでどうにもならない事実があるわけです。ここで対立なるものが生れるのですが、その対立の結果、どちらに大きなエネルギー、つまりリビドーが流れるかというと、経営学となるわけでありまして、その結果、世間様からの私への評価は心理学者というよりも経営学者であるとなるわけです。ここでさらに私が反発すると「分裂」が始まり、皆様方との仲が悪くなり、このような状態をユング心理学的に表現しますと、「統合失調症」となるわけです。

 

無意識とは意識できないので無意識なのですが、これを知ることは簡単であります。心理学の教科書や神話などを読むと簡単に知ることは可能であります。例えば、老賢者の元型イメージを知ることは神話を読むとすぐにわかるのですが、だからといって10代の若者がいきなり老賢者になりすますと周りの人は「?」となるわけでありまして、さて、その意味で元型イメージとは本当に集合的無意識を構成する要因の一つであるものか?となるわけです。

 

人生の午後三時とはユングが表現した言葉でありますが、人生の午後三時に「影」が出てくるという話の例えであります。人生の午後三時を一言で表すと「中年の危機」のことでありまして、影が出てくるのが現在では寿命が延びてきておりますので50歳くらいと考えますと、老賢者の元型イメージを生き抜くとすると・・・とても10代では厳しいのではないかと思うのです。しかし、10代でも老賢者として生きる子供も実際には存在しますが、さて、皆さまはその10代をどのように評価しますか?

 

子供の老賢者・・・・ある探偵のアニメのようですが、ということはその子供には影はないのか?などと考える悪い癖があるのが心理学者なのですが、逆に子供なのに影があると・・・これは頭で考えると恐ろしいことになりますね・・・しかし、芸術を行っていますと影やアニマ・アニムスに積極的にかかわっていくことになりまして、もう少しはっきりとしたことを書きますと、芸術家のほとんどはアニマ・アニムスと影は大好きなのです。つまり、影のある人間にあこがれをもったり、アニマ・アニムスの世界に浸かりきることに快感を覚えるなどです。影にあこがれを持つわけですから当然のごとく内面を磨いていくことになりますからアニマを意識した男性は身なりはきれいですが、中身は最悪な人間を演じていくことになります。また、影にあこがれを持つ身なりが汚い男性がアニマにとりつかれた場合、外面は粗末であるけれども、中身は非常に繊細で、例えば、家の外装は汚いけれど、内装はありえないほど「美」に囲まれた空間を演出するなど、芸術家の力量を見ることができます。

 

ユングは度々芸術について論及しておりますが、芸術家について直接文章化することはありませんでした。また、わざとそのようにしていると論文にて述べております。つまり、言いたいけれど言えなかったことであります。なぜかですが、それはユングは芸術家ではなかったからです。ユングが芸術家であるならば芸術家を研究対象としたのでしょうけど、そうではなかったところに言いたいけれど言えなかったということができますし、様々な論文にてそのように論じております。私は12歳より芸術の世界に飛び込んでおりますから、芸術家の心理を後追い的に知ったのですが、もし私が芸術の世界に身を置いていなければ心理学を知ることもなかったであろうと思います。

 

続きは次稿にて。ご高覧、ありがとうございました。