2018年1.17に書いた記事です。
気持ちも考えも変わらないです。
多くの人に読んでいただきたいので
再投稿します。
2020.1.17
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全てのライフラインが止まりました。
神戸の街が変わった日。
忘れられない「1.17」から23年が経ちました。
当時の記憶を頼りに
なぜ私が神戸で活動することを大切にしているか
そんな話を書いてみたいと思います。
※当時中学2年生だった
私の記憶に残っていることを書きますので
少しズレがあったり、表現の稚拙な部分があるかもしれませんがご了承下さい。
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バンバンドンドン!!!!
窓ガラスを割れそうなほど誰かが叩いている?!
その音で目が覚めました。
と同時に家がトランポリンのように跳ねている!
寝ていた私の頭上には大きなタンスがあり、
ガラスの置物がみるみるうちに
こちらにズレてくる!!こわい!
でも身体は全く動かすことができず、
地震というとこを考える余裕も無く
頭は真っ白でした。
揺れがおさまってから、
すでに起きていた一階の両親の元に行き、
まだ外は真っ暗でしたが、
外で飼っていた犬の無事を見てホッとしました。
幸い、家族全員無事で、
自宅の損壊もありませんでした。
ラジオとロウソクの火を家族で囲み
情報を待ちました。
夜が空けて、
2階のベランダから外を見たときに
それは今でも忘れられない衝撃の光景が
目に入ってきました。
青空の下に
真っ黒な煙の塊がありました。
あとでテレビを見てから知ったのですが、
長田の町全体が燃えていたのです。
自宅から長田の町までは電車で4駅ほどのところ。
街の景色がこの日から一変しました。
ライフラインである
電気、ガス、水道
全てがストップしていましたから、
情報もあまりない中、
両親が10時になると車でどこかに出かけて行きました。
帰ってきた時には
ダンボール箱いっぱいに入った
カップ麺を持って帰ってきました。
しかも全部 どん兵衛(笑)!!
選ぶ余地もなく、争奪戦のように
食料などを調達してきてくれました。
古〜い電気コンロ?!で
お湯を沸かすのですが、
沸騰しきらず、麺が固かった記憶が(笑)
母が作ってくれた塩むすびが美味しくて、
今でも一番好きな食べ物です。
結局、ライフラインは復旧まで1週間くらい
かかったと思います。(記憶あいまいです)
水が復旧する時に事前に
「◯時くらいに復旧するけど、また止まるかも」
という噂が流れ、
私はお風呂場の前で何度もまだかまだかと
水道の蛇口をひねっていました(笑)
水の出た時の感動は今でも忘れられません!!
一生忘れないと思います。
赤茶の水をお風呂、ヤカンなどありとあらゆる
入れ物に必死で貯めていました。
その後しばらくすると
近くの公園には隙間なく仮設住宅がたち、
何年も震災の爪痕を見続けてきました。
その後、
男の人の大声やバイクのマフラー音
のような大きな音が怖くなり、
特急電車のような長時間閉じ込められる
乗り物は苦手になってしまいました。
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あれから23年。
神戸の街を歩き、人がたくさんいて、笑顔で、
ゆったりした風景を観れることが
とても幸せだと感じています。
でも
まだまだ復興しきれていない箇所もたくさん
あります。
だからこそ
神戸の街にきて皆さんに
「神戸でお金を使って欲しい」
そんな想いを持つようになりました。
これからも大好きな街 「神戸」が
笑顔で溢れた街であり続けますように。
長々とお読み頂きまして
ありがとうございました。
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