●67 サド・マゾヒズム的共棲――創価学会員や現代人の「自由からの逃走」 | ラケットちゃんのつぶやき

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●67 サド・マゾヒズム的共棲――創価学会員や現代人の「自由からの逃走」

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P67 サド・マゾヒズム的共棲――創価学会員や現代人の「自由からの逃走」
です。
 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。

「基本的に創価学会員というのは、熱心な活動家になればなるほど、自分の判断を組織の方に丸投げしてしまう。自分自身の考えというものを真剣に突き詰めていく、そういう態度を放棄していってしまうんですよ。その行き過ぎた結果が、今の公明党が権力におぼれて、自民党のタカ派的政策に唯々諾々と従っている姿です…」(宗教問題28、P61)
 これなどは、下記に取り上げる、エーリッヒ・フロムの述べていた「自由からの逃走」の好例である。
 また、アルノ・グリューンによれば「従順という心の病い」であろう。
(アルノ・グリューン著「従順という心の病い 私たちはすでに従順になっている」 2016/11、ヨベル)

 戦後に発展した創価学会の組織について、純真な会員と池田大作・創価学会組織共棲関係にあったことを前述したが、このようなサド・マゾヒズム的共棲関係は日本だけでなく、古くは西欧暗黒時代の幕開け――ルターの宗教改革やカルビニズム、ルネサンス時代から、現代の人類に幅広くみられる心理的現象である。
 このことを指摘したのが、ナチスドイツの興隆時代~第二次大戦について書かれたフロムの論文「自由からの逃走」である。せっかくだから、ここでとりあげてみる。



■「自由からの逃走」

 創価学会が貧・病・争の社会の底辺層を取り込んで歴史的な拡大を成し遂げた背景には、戦後における混乱の中、急速に発展する資本主義の大企業のもとで一歯車となって働く労働者たちの重要な背景があった。
 エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」(日高六郎訳、1951/12/30、東京創元社)で、著者フロムは、既存の教会や国家などの権威によって自己を確立していた個人が、近代産業革命、自由主義・資本主義が発達して行く過程で、それまで寄っていた権威から解放されて自由をあたえられたが、同時にこれはそのために確立していた自我のよりどころを失うことを意味していた。そうした個人は乱立する競争のなかで、日常の生産の場において巨大企業や政治機構を前にして相対的に取るに足らなくなってしまい、結果として個人が孤独と無力に陥ったこと、そして、一握りの勝者を除く多くの個人が、それの克服のために選択したのが、自らの自由と尊厳を放棄して世間の権威や支配者に容易に身を預けるという「自由からの逃走」であったと指摘する。
 この「自由からの逃走」とは、逃避であり、その主要はファシスト国家に起こったような指導者への隷属であり、さらに現代民主主義国家においてはマスコミや地域社会で広がっている常識やしきたり、一見、民主的・資本主義建前のもとで蔓延っている様々な金や資本によるプロパガンダ、権威・名声・権益・流行・イベントなどによる強制的な画一化であると喝破する。

「…いわゆる多くの神経症患者が感じているような、この個人の孤独と無力の感情を、一般の普通人はまったく意識していない。それはかれらにはあまりに恐ろしすぎるのである。それは毎日の型のような活動、個人的また社会的な関係においてみいだす確信と賞賛、事業における成功、あらゆる種類の気ばらし、『たのしみ』『つきあい』『遊覧』などによっておおいかくされる。しかし、暗闇で口笛を吹いても光はあらわれない。孤独や恐怖や昏迷は依然として残る。ひとはいつまでもそれにたえることはできない。かれは『……からの自由』の重荷にたえていくことができない。かれらは消極的な自由から積極的な自由へと進むことができないかぎり、けっきょく自由から逃れようとするほかないであろう。現代における逃避の主要な社会的通路はファシスト国家に起こったような指導者の隷属であり、またわれわれ民主主義国家に広くいきわたっている強制的な画一化である。社会的な型となっているこの逃避の二つの方法をのべるまえに、私は読者に、逃避という複雑な心理的メカニズムについての、こみいった議論を聞いてもらわなければならない。…
孤独と無力から逃れようとするとき、われわれは、新しい型の権威に従属したり、あるいは既成の行動様式に強制的に順応したりすることによって、われわれの個人的自我からどのようにして脱出しようとしているかを示そうと思う」(同書P150-151)

「もちろん精神分析は…検閲されない個人の思考や夢や空想についての、骨のおれる観察に基礎づけられている。無意識的な力の概念を利用する心理学だけが、個人や文化を分析するさい、われわれがあやまって犯している合理化を、つきやぶることができる。もしわれわれが、ひとが自分ではそれによって動かされていると[信じている]その動機と、じっさいにかれらを行動させ、感じさせ、考えさせている動機とが、一つのものだという考えをすてさえすれば、いままで解釈できないと思われていた多くの問題も、たちどころに消えてなくなることであろう。…
どのような集団も個人によってできたものであり、…集団のなかで働いているメカニズムは、個人のなかで働いているメカニズムにほかならない」(同書P155-156)

 これは、我々が日常で「自由に選択して生きている」と思って生きているのだが、その思い――すなわち、自由に欲望をもち選択していること――は、本当に自分独自から発する欲望や選択なのではなく、実は既成の風習や流行、常識、権威・権力・マスコミによる操作、さらにはそれによって長期的又は短期的にもたらされた良心や価値観・世界観によって、無意識的に「自由に選択して生きている」と「思いこまされている」ことなのである。
 別の言い方をすれば、実は我々は、皆や周囲が「我々自身が欲するであろうと思うこと」を「欲している」のにすぎないのであって、真に自分が欲することを欲しているとは限らないということである。
 我々の欲望や自由は、周囲によって操作され、真の自由を奪われている。
 これが、自由主義国家における人々が陥っている「自由からの逃走」――いわば現代における人間の「自己疎外」の正体である。
 フロムは1949年代で既にこの真実を指摘し、さらにその後もその著「希望の革命」「よりよく生きるということ」などで、指摘している真理である。



 我が国の終戦後の人々は、アメリカGHQの統治下以降、荒れ果てた国土・治安の悪化とすさんだ心、そして以前に自我のよりどころであった天皇を中心とした国家的価値観が一気に崩壊したため、それに伴って多くの人々は確たる自己の精神的基盤=自我が崩壊した。そしてこれにとってかわった「自由」主義において新たな思想が芽吹くなか、自らに与えられた「自由」に対する周囲からの重圧―――フロムの指摘する孤独や無力感――に耐えられず逃避し、容易に他の権威や乱立する支配者たちに心をあずけてしまった。
 創価学会がこうした人達を取り込んで組織拡大することが容易であった背景がこれである。
 これと同様の現象は西洋各国において、中世暗黒時代の崩壊、ルターの宗教改革、カルビニズム、またルネサンスから資本主義の勃興にかけての歴史上で起こったことであるとフロムは指摘している。

 創価学会に限らず、多くの新興宗教団体の興隆が見られる。
また、宗教団体に限らず、戦後の復興から高度経済成長、バブル期までの我が国では、生産活動を共にした企業への忠誠・滅私奉公が道徳的に是とされ、その見返りとして企業などによる福利厚生も進んできた。
 人々は自ら背負った自由の相当部分~大部分を宗教や企業等の指導者たちに、自ら進んで丸投げして隷従してきた。
 その実直さ・忠実さが、バブル期までの高度成長・所得拡大を支えてきたといえる。
 進んで隷従する程度は個人の所得や資産もさることながら、個人の自立・確立の程度に依存している。
 自らの思想・信念を強固に確立している者はその維持・向上に多大な労力を要するが、大部分の人々はそのアイデンティティーを他者・社会に依存するという容易な選択に甘んじてきたことも事実であり、それは今日のコロナ過をめぐる我が国や世界情勢を見れば明らかであろう。
 当初、戦後の昭和時代に創価学会に入会した純真な会員たちは、その多くがフロムの言う「自由から逃走」し、抱えきれない自らのアイデンティティーを自ら創価学会の組織に委ねる形で取り繕ってしまった。結果として組織のためならどんな行為も行うという「学会組織に隷従する」ように仕向けられ、また、それに忠実に行動した。
 つまりこれはいわゆる原理主義的な人々である。
 こういった心理状態では、個人は科学的思考つまり理性が閉ざされ、ただただ組織の上意下達に従った行動しかできないし、しかも自ら進んで喜んで隷従する。
しかもそれによる行動や思考は、個人は自ら選択した自発的なものとして確信したものと思いこみ、人生経験として積み重ねられていく。
 こうしてこの積み重ねが個人のアイデンティティーを形成する。
いわば洗脳され続けながらアイデンティティーが形成されることになる。
 そこで得られた奉仕による歓喜や達成感・充実感が信仰体験として人格内に刻まれていく。
 功徳と思いこんでいるこの信仰体験は、まさにフロムの指摘するところの、支配者に隷従する「奴隷」が得る歓喜・充実感である。
 とはいえ組織拡大のためとはいっても、その手段としてそれと抱き合わせてなされた地域貢献やボランティア活動は大いに評価するべきことである。
 ただ、それらは、個人一人一人が自立した上で確立した信念が根底となったものではなく、現実にはただ、創価学会のヒエラルキーを支えるためのものでしかない。
 事実、純真な学会員ほど、自らの信念を組織に丸投げしている。
 ひたすら、組織の打ち出しに隷従しながら、公明党の票取り、聖教新聞の購読部数拡大(新聞啓蒙と称する)とともに、財務(創価学会への寄付。かつては供養と称した)の拡大に奔走する。
 部外者から公明党の矛盾や教義の誤りを指摘されても、「池田先生がおっしゃることに間違いはない」と、自ら信じこんでいる。

 組織の打ち出しの達成には、どんな犠牲も躊躇しない。
文化祭をしばしば開催していたバブル期ぐらいまでは、つい最近でもマスコミなどで取り上げられるいじめや体罰、サディズム的行為が、組織内で常識として横行していた。
 いじめや体罰を受ける信者側も、自ら喜んで受けていた。これを「歓喜」と言っていた。
 なにもこの指摘事実は創価学会組織に限って言うことではない。
民主的国家におけるほとんどすべての組織・企業・団体などについて、その要素が含まれていると考えられる。



■「サド・マゾ」の根底は同じ

 拙記事P39にて私はこう指摘した。
 権力者が所従を支配し我が物の如く扱う快楽は、マルキ・ド・サド著「閨房の哲学」(秋吉良人訳、2019/4/10、講談社文庫)に、また奴隷として使える快楽や信念は、L・ザッヘル・マゾッホ著「毛皮を着たヴィーナス」(種村季弘訳、2004/6/20河出書房新社)に、また鈴木孝編「奴隷の詩学~マゾヒズムからメイド喫茶まで」(2006/7/20、書苑新社)では、他に隷属し、しもべになることの悦楽について多くの例が解説されている。また、その他さまざまな官能小説やコミックが存在する。

 「暴君たちが豊かでいられるのは、ひとえに奴隷の数にかかっている」(「閨房の哲学」P254)
「人民はその一人一人が君主〔主権者〕なのだから、(子供の数が)増えすぎないように用心することだ。革命はあまりに多くなりすぎた人口の結果でしかないことを肝に銘じるのだ」(「閨房の哲学」P255)
 「神について、まるで本当にそんなものがいるかのように話したそうですね…中略…宗教については、宗教的礼拝が最も強い者の欺瞞と最も弱い者の愚かしさから生じたものではないか、イエス・キリストについては、まるでこのげす野郎がペテン師でも悪人でもないかのように講釈を垂れた。おまけに、〝やる”のは罪悪だと言ったそうだが、あべこべもいいところだ。〝やること″こそ人生で最も甘美な行為じゃないですか。」(「閨房の哲学」P299)

「殉教者たちは獄屋につながれて呻吟し、火焙り器に掛けられて拷問され、矢に射抜かれ、ぐらぐらと煮えたぎる瀝青のなかに放り込まれ、野獣どもをけしかけられ、十字架に釘付けされ、しかもこの怖ろしい苦痛を一種の歓びとともに味わっていたのでした。苦痛に耐え、残忍な責苦に耐えることが、このとき以来私には享楽のように思えたのです。その執行者が美しい女性ならまた格別です…中略…私は女を荘重な礼拝の対象にしたのです」(「毛皮を着たヴィーナス」P67-68)


 支配者と被支配者の立場は異なるが、自らすすんでそれぞれの状態に聖なる至福を見出しているのであり、それを正当化する理屈はあとからいくらでもつけられることである。
 仏法では、こういった心理はすでに天台の一念三千に見ることができる。
すなわち、その法理のなかにある十界互具では、どちらも畜生界・修羅界の生命に縁覚界が具足している状態とみることができる。

 また、以下の指摘、
「奴隷にとって、主人がより高いところにいる存在であればあるほど、それを汚す存在として高められる…中略…
 奴隷はセクシャリティとは別のところに存在する。一見、関係なさそうな、社会構造の中に埋め込まれた奴隷はどうだろうか。例えば、沖縄の米軍基地に象徴されるように、日本がブッシュの奴隷のようにふるまう状況。あるいは、日本人の多くが国民を奴隷にするようなさまざまな法案(たとえば共謀罪法案であり教育基本法改正案)に対して強い拒否反応が示されず、一方で強いリーダーというイメージを求める状況。本多勝一が言うところの、日本人は羊型遺伝子を持っているということだろうか。だが、そうした遺伝子を持っているかどうかはともかく、ポピュリズムを求めるメンタリティというのは、強い主人を持つことによって、それに支配されようとも、それによって自分たちがエンパワーメントされるという幻想をもつことができる。でも、それは本当に幻想でしかない」(鈴木孝編「奴隷の詩学~マゾヒズムからメイド喫茶まで」P140)
 は、現代の世相の例をあげた卓見である。
「ポピュリズムを求めるメンタリティというのは、強い主人を持つことによって、それに支配されようとも、それによって自分たちがエンパワーメントされるという幻想をもつことができる」

 まさに、池田大作を頂点とする創価学会幹部と会員との主従隷属関係「師弟不二」の側面を言い当てている。




■フロムは、サディズムとマゾヒズムの両者に共通の根源をこう指摘する


「マゾヒズム的およびサディズム的努力のいずれもが、たえがたい孤独感と無力感とから個人を逃れさせようとするものである」(以下同書P169~)
 多くのマゾヒズム的人間の実例の精神分析や観察から、
①かれらが孤独感と無力感の恐怖にみちていること
②しばしばこの感情は意識的ではなく、それは優越性や完全性の、補償的な感情でおおわれていることもある
③個人は否定的な意味で自由であると感じる。すなわちかれはひとりぼっちであり、よそよそしい敵意にみちた世界に対立している

 その例としてドストイエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の叙述を挙げている
「『人間という哀れな動物は、もって生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、ゆずり渡せる相手をみつけたいという、強い願いだけしかもっていない』。おびえた個人は、自分をだれかと、あるいはなにものかと結びつけようとする。もはやかれは自分自身をもちきれない。かれは狂気のように自分自身から逃れようとする。そしてこの重荷としての、自己をとりのぞくことによって、再び安定感ををえようとする」(同書P170~)


 さらにマゾヒズムの目標をこう語る。
 「マゾヒズム的努力のさまざまな形は、けっきょく一つのことをねらっている。[個人的自己からのがれること、自分自身を失うこと]、いいかえれば、[自由の重荷からのがれること]である。このねらいは、個人が圧倒的に強いと感じる人物や力に服従しようとするマゾヒズム的努力のうちにはっきりあらわれる(つけたせば他人が優越した力をもっていると考えることも、つねに相対的に理解されなければならない。それは他の人物のじっさいの力によることもあるし、また自己の完全な無主義性、無力感を信ずることによるばあいもある。後者のばあいには一匹の鼠でも、一枚の木の葉でも、おそるべきものと考えられる)」


「マゾヒズム的な弱小感の傾向のなかには、もともとの無意味感を増大させる傾向がみられる。…中略…もし私が、独立し強くありたいという願いと、無意味や無力の感情とのあいだでたたかっているかぎりは、私は苦悩のなかにとらえられている。もし私が自己を無にまで縮小させることができれば、もし私が個人としての分離感を克服することができれば、私はこの矛盾から私自身を救いだせるであろう。まったく小さく、まったくよるべがないと感じることは、この目的のための一つの方法である」

「苦悩や悩みに圧倒されることは他の方法である。酩酊してそれを克服することもまた一つの方法である。もしこの孤独感の重荷から解放されるための一切の方法が失敗したときには、自殺を空想することも最後の希望である」

 そして、私も同感であるが、現代の自由主義先進国にみられる人類の陥っている傾向――もちろん創価学会組織だけに止まらない――を、フロムは戦前より次のように見事に見抜いていた。
 「ある条件のもとでは、このマゾヒズム的追求は相対的に成功する。もし個人がこのようなマゾヒズム的努力を満足させる文化的な型をみつけることができれば(たとえばファシストのイデオロギーにおける『指導者』への服従のように)、かれはこの感情をともにする数百万のひとびとと結びついているように感じて、安定感をうるのである。しかしこのようなばあいでも、マゾヒズム的『解決』は神経症的なあらわれにおけるような解決と同じものでしかない。もしマゾヒズム的努力を表現する文化形式が存在せず、あるいはその個人の属している社会集団のなかのマゾヒズムの平均量を、個人のマゾヒズム的追求が量的に凌駕するときには、マゾヒズム的解決は、相対的な意味においてさえ、無力である。マゾヒズム的解決はたえがたい状況からおこり、それに打ちかとうとするが、けっきょく個人を、新しい悩みのなかにとらえられたままに残す。もし人間行動がつねに理性的で合目的的であるならば、マゾヒズムは、神経症的症状と同様に、説明しがたいものであろう。しかし感情的精神的錯乱の研究が教えるところでは、人間行動は、不安とかそのほかのたえがたい心の状態からおこる追求がその動機となることがあり、またこの追求はその感情的状態を克服しようとするが、それはただそのもっとも目立つ表現だけをおおいかくすだけであり、それすらできないこともあるということである」(同書P172 )
「マゾヒズム的努力は、その短所、葛藤、疑惑、あるいはたえがたい孤独感をもつ自己から逃れようとする願望に動機づけられている。しかしそれはただ、もっとも表面的な苦痛をとりさることに成功するだけであり、でなければ、いっそう大きな悩みへと導くだけである。マゾヒズムの非合理性は、他のすべての神経症的なあらわれと同じように、継続しがたい感情的状態を解決するための方法が、究極的には非生産的であるというところにある。
 これらのことは神経症的行為と合理的行為との、重大な差異を説明する。後者のばあいは、[結果]は行為の[動機]に対応する。ひとはある結果をえようとして行為する。神経症的努力においては、ひとは強迫によって行為する。その強迫はたえがたい状態からのがれたいという本質的に否定的な性格をもっている。この努力はただかりそめの解決の方向をもつだけである。じっさいには、その結果はかれがのぞんだことと矛盾する。たえがたい感情からのがれたいという強迫はあまりに強く、ひとはかりそめならぬ解決を可能とするような行為の方向を、えらぶことができない。
 このことは、マゾヒズムにおいて、個人はたえがたい孤独感や無意識感に動かされているということを意味する。かれは、(肉体的ではなく、心理的な全体としての)自分自身から逃れることによって、それに打ちかとうとする。その方法は、自分自身を小さくし、悩まし、まったく無意味なものにすることである。しかし苦悩や悩みは、かれが欲するものではない。苦悩や悩みは、かれがしゃにむにえようとする目的のために払う代償である。その代償は高いものである。かれはさらにいっそうたくさん払わなければならないようになる。そしてかれは奴隷的な債務者のように、かれがそのために払ったもの――すなわち心の平和と安静をうることはできず、ただますます大きな負債に落ち込んでいく。
 私はマゾヒズム的倒錯を語ったが、それは疑いもなく、苦悩は求められることもありうるということを証明しているからであった。しかしマゾヒズム的倒錯は、精神的マゾヒズムと同じように、けっして真実の目的とはなりえない。いずれのばあいも、それは自己を忘れるという目的のための手段である」

 さらに、倒錯とマゾヒズム的性格との相違をこう述べる。
「倒錯のばあいには、自己から逃れようとする傾向は、肉体を通じて表現され、性的感情と結びついている。精神的マゾヒズムでは、マゾヒズム的傾向は全人格を支配し、自我が意識的に達しようと試みるすべての目的を破壊しようとするが、倒錯のばあいには、マゾヒズムの追求は多かれ少なかれ肉体的領域に限定されている。いなむしろそれは性と融合し、性的領域における緊張の解放に参加して、直接的開放をみいだそうとする」(同書P173)


「個人的自我を絶滅させ、たえがたい孤独感にうちかとうとする試みは、マゾヒズム的努力の一面にすぎない。もう一つの面は、自己の外部の、いっそう大きな、いっそう力強い全体の部分となり、それに没入し、参加しようとする試みである。その力は個人でも、制度でも、神でも、国家でも、良心でも、あるいは肉体的強制でも、なんでもよい。ゆるぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることによって、ひとはその力と栄光にあやかろうとする。ひとは自己自身を屈服させ、それのもつすべての力や誇りを投げすて、個人としての統一性を失い、自由をうちすてる。しかしかれは、かれが没入した力に参加することによって、新しい安全と新しい誇りとを獲得する。またかれは疑惑という責苦に抵抗する安全性をも獲得する。マゾヒズム的人間は、外部的権威であろうと、内面化された良心あるいは心理的強制であろうと、ともかくそれらを主人とすることによって、決断するということから解放される。すなわち自分の運命に最後的な責任をもつということから、どのような決定をなすべきかという疑惑から解放される。かれはまたかれの生活の意味がなんであり、かれがなにものであるかという疑惑からも解放される。このような問題は、かれが結びついている力との関係によって答えられる。かれの生活の意味やかれの自我の同一性は、自身が克服したより大きな全体によって決定されるのである…中略…
マゾヒズム的絆は逃避である。個人的自己は解放されたが、しかしかれの自由は実現できないのである。それは不安、疑惑、無力感によってうちのめされている。自己は『第二次的絆』のなかに安定感を求めようとする。それはマゾヒズム的絆とも呼ぶべきものであろうが、しかしこの試みは成功するはずがない。個人の解放ということは逆転できないのである。意識的には個人は安全であり、なにかに『属して』いるように感じることができよう。しかし根本的にはかれはかれの自己喪失になやむ無力なアトムにすぎない。かれと、かれがしがみつく力とは、けっして一つになることはない。根本的な対立が残り、それとともに、たとえ意識的でないとしても、マゾヒズム的な依存に打ちかち、自由になろうとする衝動が残る」(同書P175)



■フロムの指摘するサディズム

「サディズム的衝動の本質はなんであろうか。ここでもまた、他人に苦痛をあたえようという願望が本質なのではない。…ただ一つの本質的な衝動までさかのぼることができる。すなわち他人を完全に支配しようとすること、かれをわれわれの意志にたいして無力な対象とすること、かれの絶対的支配者となること、かれの神となり、思うままにかれをあやつることである。かれを絶滅させ、かれを奴隷にするのは、この目的のための手段である。そのもっともきびしい目標はかれを悩ませることである。なぜなら他人を支配する力として、他人に苦痛をあたえ、自己防禦できないものに苦悩をしのばせる以上のことはないからである。他人(あるいは他の生物)を完全に支配することの快楽、これがサディズム的衝動の本質である。
 他人にたいして完全な支配者となろうとするこの傾向は、マゾヒズム的傾向とはまったく反対のように思われる。それでこの二つの傾向が密接にくみあわされたものであるといえば、ひとは当惑するかもわからない。もちろんその実際の結果について考えれば、依存し苦しもうとする願望と、他人を支配し苦しめようとする願望とが、正反対のものであることは疑いない。しかし心理学的には、この二つの傾向は一つの根本的な要求のあらわれである。すなわち孤独にたえられないことと、自己自身の弱点から逃れることである。私はサディズムとマゾヒズムのどちらの根底にもみられるこの目的を、[共棲](symbiosis)と呼ぶことにしたい。心理学的意味における共棲とは、自己を他人と(あるいはかれの外側のどのような力とでも)、おたがいに自己自身の統一性を失い、おたがいに完全に依存しあうように、一体化することを意味する。サディズム的人間は、マゾヒズム的人間が対象を必要とするのと同じように、対象を必要とする。ただかれは、抹殺されることのよって安全を求めるのではなく、他人を抹殺して安全を獲得する。どちらのばあいも個人の統一は失われる。一方では私は自己の外側の力のなかに解消する。私は私を失う。他方では私は自己を拡大し、他人を自己の一部にするが、そのさい私は独立した個人としては欠けていた力を獲得するのである。他人と共棲的な関係にはいろうとする衝動へかりたてられるのは、自己自身の孤独感に抵抗できないからである。こうしてマゾヒズム的傾向とサディズム的傾向とがまじりあっているということが証明される。それらは表面的に矛盾しているが、本質的には同じ要求に根ざしている。ひとびとはサディズム的であるか、[あるいは]マゾヒズム的であるのではない。共棲的複合体には、つねに振子のように、能動的な側面と受動的な側面とがあり、それゆえその瞬間にどちらが働いているかをきめることは、しばしば困難なことがある。しかしいずれのときにも、個性と自由とは失われている」(フロム著「自由からの逃走」P175-177) 



■ヒットラーのサド・マゾヒズム

 フロムの指摘するサド・マゾヒズムの例は多くの歴史的な人物に見られるが、池田大作のサド・マゾヒズムを検討する前に、その過激で悲劇をもたらした歴史的例としてヒットラーをあげておく。

 ヒットラーは、サディズム的に、偉大なマルキスト達を、次のように蔑みながら、自身も同様にマゾヒズム的にこの方式を取り入れた。
″What won over millions of workpeople to the Marxist cause was not the ex cathedra style of the Marxist writers but the formidable propagandist work done by tens of thousands of indefatigable agitators, commencing with the leading fiery agitator down to the smallest official in the syndicate, the trusted delegate and the platform orator.
Furthermore, there were the hundreds of thousands of meetings where these orators, standing on tables in smoky taverns, hammered their ideas into the heads of the masses, thus acquiring an admirable psychological knowlage of the human material they had to deal with.
And in this way they were enabled to select the best weapons for their assault on the citadel of public opinion.
In addition to all this there were the gigantic mass-demonstrations with processions in which a hundred thousand men took part.
All this was calculated to impress on the petty-hearted individual the proud conviction that, though a small worm,he was at the same time a cell of the great dragon before whose devastating breath the hated bourgeois world  would one day be consumed in fire and flame, and the dictatorship of the proletariat world cerebrates its conclusive victory.”
《マルクス主義が何百万人もの労働者を勝ち取ったのは、マルクス主義の執筆形式ではなく、それは熱烈な扇動家から、信頼のおける代表者、壇上の雄弁家に至るまで、何万人もの不屈の扇動者によって行われた強力な宣伝活動によってであった。
この、何十万もの集会において、煙草の煙がたちこめるレストランのテーブルに立っている扇動者が、彼らの思想を大衆の頭に打ち込み、彼らが扱う人的資源へ強力な精神的基盤を獲得させた。
こうして、彼らは世論の要塞への攻撃に最適な武器を選択することができたのである。
これらすべてに加え、10万人の男性が参加した行列を伴う巨大な大衆デモも、そうであった。
このすべての謀略が、ちっぽけな個人を、小さな回虫の分際でありながら同時に偉大なドラゴンの一部分に成り上がらせた。そしてその壊滅的な息の前に憎々しいブルジョアの世界がいつの日か火と炎にまみれ、プロレタリア独裁が決定的な勝利を祝うのだという誇り高い信念を、そのちっぽけな個人に植えつけたのである》

 ここで言われている「思想を大衆の頭に打ち込」むというサディズムもさることながら、それに共棲した大衆のマゾヒズムが印象的である。
 つまりあたかも「小さな回虫」が巨大な「竜」の一部として身を任せること(竜へのマゾヒズム)で、彼ら一人一人が竜として振る舞うように、激動の時代、宗教改革後・ワイマール憲法下の「自由」という大海に溺れる大衆ひとりひとりであった「ちっぽけな個人」は、扇動家の頂点にいる支配者ヒトラーに、いとも簡単に魂を預けてアイデンティティを共有し、誇り高い信念をもつことができたのである。
まさにこれは先述したフロムの指摘のとおり、「自己の外部の、いっそう大きな、いっそう力強い全体の部分となり、それに没入し、…中略…ゆるぎなく強力で、永遠的で、魅惑的であるように感じられる力の部分となることによって、ひとはその力と栄光にあやかろうとする。ひとは自己自身を屈服させ、それのもつすべての力や誇りを投げすて、個人としての統一性を失い、自由をうちすてる。しかしかれは、かれが没入した力に参加することによって、新しい安全と新しい誇りとを獲得する」のである。

 いかがか。これは現代の自由主義の我々が属するあらゆる組織の中にも多く見受けられる有様であろう。


 そして、彼は、サディズム的に、演説者の持つ力「強力な金づち」で、聴衆の「アタマを打つ」(意志を破壊する)ことが、プロパガンダの本質であると述べる。

「彼は大衆を典型的なサディズム的方法で軽蔑し『愛する』のである」とフロムは言い、大衆が自ら支配されることによって味わう満足について、
「大衆が欲するのは強者の勝利と弱者の殲滅あるいは無条件降伏である」「弱い男を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりも支配者を愛し、自由をあたえられるよりも、どのような敵対者も容赦しない教義のほうに、内心でははるかに満足を感じている。大衆はしばしばどうしたらよいか途方にくれ、たやすく自分たちはみすてられたものと感じる。大衆はまちがった原理もわからないので、かれらは自分たちにたいする精神的テロの厚顔無恥も、自分たちの人間的自由の悪辣な削減も理解することがない」(フロム、同書P244)

 そして、そういう暗示の効果的な条件に聴衆の肉体的疲労をあげ、こういった集会においての適切な時間は夜であると、次のように論じている。
”In the morning and during the day it seems the power of the human will rebels with its strongest energy against any attempt to impose upon it the will or opinion of another.
On the other hand, in the evening it easily succumbs to the domination of a stronger will.
Because really in such assemblies there is a contest between two opposite forces.
The superior oratorical art of a man who has the compelling character of an apostle will succeed better in bringing around to a new  way of thinking those who have naturally been subjected to a weakening of their forces of resistances rather than converting those who are in full possessin of their volitional and intellectual energies.”
(アドルフ・ヒトラー. 【英語版原文】わが闘争 (Kindle の位置No.6948-6949). Kindle 版.)

 彼は、こうして自ら先頭に立って、集会において多数を占める反対者たちを打ち砕いていった。

 ちなみに、平日に行なわれ上意下達の連絡がなされる創価学会末端組織内での活動者会はほとんど夜である。

 ヒトラーは反対者から発砲され妨害されたこともあったが、7-8百人の反対者を僅か50人ほどの仲間たちが血みどろになって講堂から追い出すのを、壇上で歓喜しながら見つめ、騒ぎが治まってから解散を命じてきた警察について述べている部分が印象的である。
”Without wishing to do so I had to laugh at this example of the law's delay. It was real police pompousness.
The smallar they are the greater they must always try to appear."

 この、「愚かであればあるほど自分を常に偉大に見せようとしなければならない」ということは、修羅の境涯の一面であり、池田大作を頂点とする創価学会組織や幹部たちの姿にもみられる。

 そして、ヒトラーのいう本当の強者は、孤独で、単独で最強であると続く。後に検討するが、これが池田大作のサディズムと異なっている点である。


■ヒトラーについてフロムはこう指摘する。

「サディズムは他人にたいして、多かれ少なかれ破壊性と混合した絶対的な支配力をめざすものと理解され、マゾヒズムは自己を一つの圧倒的に強い力のうちに解消し、その力の強さと栄光に参加することをめざすものと理解される。サディズム的傾向もマゾヒズム的傾向もともに、孤立した個人が独り立ちできない無能力と、この孤独を克服するために共棲的関係を求める要求とから生ずる」
 そしてヒトラーの『わが闘争』を例に挙げる。
「かれは政敵にたいして、かれのサディズムの重要な構成物である破壊的要素を露骨にむけていくが、そればかりではなく、それはまたかれのドイツ大衆にたいする関係の特徴でもある。かれは大衆を典型的なサディズム的方法で軽蔑し『愛する』のである。かれは大衆が支配のうちに味わう満足について語っている。『大衆が欲するのは強者の勝利と弱者の殲滅あるいは無条件降伏である』。『弱い男を支配するよりは強い男に服従しようとする女のように、大衆は嘆願者よりも支配者を愛し、自由をあたえられるよりも、どのような敵対者も容赦しない教義のほうに、内心でははるかに満足を感じている。大衆はしばしばどうしたらよいか途方にくれ、たやすく自分たちはみすてられたものと感じる。大衆はまちがった原理もわからないので、かれらは自分たちにたいする精神的テロの厚顔無恥も、自分たちの人間的自由の悪辣な削減も理解することがない』
 ヒットラーは、演説者の優れた力によって聴衆の意志を破壊することが、プロパガンダの本質的要素であると述べている。かれは平気で、聴衆の肉体的疲労が暗示にかかるもっとも歓迎すべき条件であると認めている。一日のうちでいかなる時刻が大衆の集会にもっとも適しているかという問題を論じて、かれはいう。『朝や日中は、ひとびとの意志の力は、もっとも強いエネルギーで、自分とことなる意志や意見によって強制される試みに反抗するようである。これに反し夕方には、より強い意志の支配的な力にたやすく屈服する…』
 ヒットラー自身、服従への切望を生みだす条件をよく認識しており、大衆集会における個人の状況を見事に叙述している。
『新しい運動の帰依者になろうとするとき、個人は孤立的な感じがして、自分一人ではないかという恐怖にとらわれ勝ちであるが、かれは大衆集会ではじめてより大きな同志の集りをみて、たいていのひとを力づけ勇気づけるものを受けとるのである。このような理由だけからでも、大衆集会は必要である。……もし個人が自分の小さな仕事場や、自分を非常に小さなものに感じている大企業から、はじめて大衆集会に足を踏みいれ、同じ信念をもつ何千というひとびとのあいだに身をおくならば……かれはわれわれが大衆暗示と呼ぶところのものの魔術的な影響に屈するのである』」(同書P244-245)


 また、フロムはゲッペルスの小説『ミハエル』も引用し、サディズムが、その共棲関係にあるマゾヒズムがなければ空虚であることを述べている。
「『民衆は上品に支配されること以外なにものぞまない』…『民衆は上品に支配されること以外なにものぞまない』…民衆はかれにとっては、『彫刻家にとっての石材にほかならない。指導者と大衆という問題は、画家と色彩の問題と同じく、とるにたらないものである』…

もう一つの本の中でゲッペルスはサディズム的人間は他のだれかにたいして力をもたないかぎり、どんなに弱く空虚に感ずるか、またこの支配力がどんなにかれに新しい力をあたえるかを描いている。『ひとはときに深い意気消沈にとらえられることがある。ひとは再び大衆の前にでるときにのみそれを克服することができる。民衆はわれわれの力の泉である』」


「権力の同じような強調は、教育目的についてのヒットラーの公式のうちにも存在する。かれはいう、生徒の『全教育と発達は、他人にたいし絶対的に優越しているという確信をあたえるように導かれるべきである』と。
 他の個所でかれが、少年は反抗することなしに不正に堪えるように教育されなければならないと主張している事実…この矛盾は、権力を求める欲望と服従を求める欲望とのサド・マゾヒズム的両面性に典型的なものである」(同書P246-247)

「『指導者』は第一番に権力を享受する人間であるが、大衆も決してサディズム的満足を奪われてはいなかった。ドイツ内の人種的政治的少数者や、また最後には、弱小であるとか衰亡しつつあるとかされている他の諸国民が、大衆を満足させるサディズムの対象である。ヒットラーとかれの官僚はドイツの大衆を支配する力を享受するが、これらの大衆は他の国民を支配する力を享受するように、また世界征服の野望にかりたてられるように教えられる」(同書P247)

 ちなみに、これは、学会内のヒエラルキーにおいて、また信者でない相手に対して折伏を行なうかつての純粋な創価学会組織や会員にも共通する要素があるといえる。

「ヒットラーはためらうことなく、世界征服の野望を自分の、あるいはかれの党の目標として表現している。かれは平和主義を嘲笑していう。『じっさい、最高の人間がこの地球のただひとりの主人公となるように、まえもって世界を征服し服従させてあるときは、平和主義的人道的思想も完全によいものとなろう』と…」

 かつての池田大作もこれと似たようなことを述べていた(先述した)。


「ヒットラーは通例、かれの権力欲を合理化し正当化しようとつとめる…
すなわち、かれの他国民支配は他国民自身の福祉のためであり、世界の文化の繁栄のためであるとか、また権力欲は永遠の自然法に根ざしており、かれはこの法則を認識し、ただそれにしたがっているだけであるとか、またかれ自身はより高い力――神、運命、歴史、自然――の命令のもとに行動しているとか、また彼の支配計画は他民族がかれやドイツ国民を支配しようとする企図にたいするたんなる防衛であるとかいうのである。かれはただ平和と自由のみをのぞんでいるという…中略…自分の目的はドイツの繁栄だけではなく、文明一般の最良の利益に奉仕しているのだと…」(同書P247-249)


 かつての創価学会の宗教的野望(折伏、世界広布、国立戒壇建立など)や、その教義――神を「御本尊(板マンダラ)」に、運命を「使命」に、自然を「宇宙のリズム」に置きかえてみたら――に、これとよく似ている又は共通している部分が見えるではないか。



■ヒットラーの[マゾヒズム]的側面(フロムの指摘)

「無力な存在を支配する力をえたいという欲望とならんで、圧倒的に強い力に服従し、自己を絶滅したいという欲望が存在する。ナチのイデオロギーや実践のこのマゾヒズム的側面は、大衆をみるともっとも明白である。大衆はくりかえしくりかえし、個人はとるにたらず問題にならないと聞かされる。
個人はこの自己の無意義さを承認し、自己をより高い力の中に解消して、このより高い力の強さと栄光に参加することに誇りを感じなければならない」

 ちなみに「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」」(御書P26)の日蓮の遺文を曲解し、無力であっても創価学会組織に属して行けば必ず仏界に至るという宗教体験を語る会員や幹部が多くいるのは、会内では知られたことである。

 また、「無力ではありますが、池田先生の手駒となって・・・」という、創価学会中堅幹部の決意発表や指導に、前記のマゾヒズム要素があらわれているといえる。

「権力の同じような強調は、教育目的についてのヒットラーの公式のうちにも存在する。かれはいう、生徒の『全教育と発達は、他人にたいし絶対的に優越しているという確信をあたえるように導かれるべきである』と。
 他の個所でかれが、少年は反抗することなしに不正に堪えるように教育されなければならないと主張している事実は、――おそらくは――読者にとっては不思議ではないであろう。この矛盾は、権力を求める欲望と服従を求める欲望とのサド・マゾヒズム的両面性に典型的なものである」
 

「かれは理想主義の定義のなかで、この考えを明白に表現している。すなわち『理想主義だけが、ひとびとに力と強さの特権を自発的に承認するようにさせ、そしてひとびとを全宇宙を形成するかの秩序のなかの一片の塵にさせる』…
 個人を犠牲にし、個人を一片の塵、一個の原子におとしめることは、ヒットラーによれは、人間の個人的な意見や利益や幸福を主張する権利を放棄することを意味する。この放棄は『個人が自らの個人的意見や利益の主張を放棄する』政治的組織の本質である。ヒットラーは『非利己的なこと』を称賛し、『ひとびとはみずからの幸福を追求することにおいて、ますます地獄へ墜落する』と教える」(同書P255)

 ここでの『理想主義だけ』を「南無妙法蓮華経だけ」「創価学会だけ」と置き換えてみると、似たような内容のかつての指導になるほどとうなづく人も多いだろう。ちなみに『幸福』を「欲望の満足」に、『地獄』を「餓鬼」に置きかえてみると、十界論の餓鬼の境涯の説明となる。

 ヒットラーは、自身の「自己否定と犠牲の哲学」が、窮乏する人に対し「お誂えむきにできている」ことを知りつつ、「大衆にかれの自己滅却の福音を信じさせるために、大衆の窮乏を利用」した。「かれはきわめて率直に『あまりに貧乏であるために、自分たちの個人的生活が世界の最高の運命となることのできないようなひとたちの大軍を、われわれは味方にする…』と言明している。…指導者や『選良』の側の権力欲が実現されるならば、大衆は自己を放棄し服従しなければならないのである」

 ちなみに創価学会草創期においての「貧・病・争」の人たちへの折伏・指導、罰論などは、その活動や発展の正当化にもなっていたと思われる。


 同時に「このマゾヒズム的憧憬はヒットラー自身にもみいだされる。
かれにとっては、服従すべき優越した力は神、運命、必然、歴史、自然である」と指摘し、その例として以下を挙げる、
「かれは『[運命]が私の生誕地としてイン河畔のプラウナウを指定したことは、私にとって幸運であった』という叙述で自叙伝をはじめている」「この国がドイツ人全体にとってあまりに狭くなったときにのみ、[必然]がドイツ人に『土地と領土を獲得する道徳的権利』をあたえることになろうから、そのとき全ドイツ人は一つの国家に統一されなければならないといっている」
 また1914年から1918年での敗戦は「『[永遠]の審判による当然の処罰』である。他民族と混血するような民族は『永遠の[摂理]の意志にたいして』、あるいはかれがほかのときにいっているように『[永遠]の創造者にたいして罪を犯しているのである』。ドイツ人の使命は『宇宙の創造者』によって定められている。[天]は人間に優越する。というのは、さいわいなことに、ひとは人間を馬鹿にすることはできるが『天は買収されえない』から」
「神、摂理、運命よりもおそらくヒットラーを感銘させる力は[自然]である。…ヒットラーは、ひとは人間を支配でき、また支配しなければならないが、自然を支配することはできないと主張する」
「かれは人間は『自然を支配しているのではなく、自然の法則と秘密を少しばかり知ることによって、この知識をもたない他の生物の主人としての地位に上ったのである』という。ここでもまた、自然はわれわれが服従しなければならない偉大な力である」

 そしてこういった彼のパースナリティすなわち劣等感、嫌悪、禁欲主義、嫉妬などが、サド・マゾヒズム的衝動の土壌となり、似たような性格構造の人たちに自分たちの感情を表現するものとして熱烈に追随させたとする。
 さらに「政治的実践がイデオロギーの約束したことを実現していった。一つの階層制度が創りだされ、すべてのひとびとが自分の上にしたがうべきものをもち、自分の下に支配力を感じさせるあるものをもつようになった。頂点の人間、すなわち指導者は、服従すべき力として、自分の上に運命、歴史、自然をもっている。
このようにして、ナチのイデオロギーと実践は、民衆のある一部のものにたいしては、その性格構造から発する欲望を満足させ、また支配や服従を楽しんではいないが、人生や、自分自身の決断や、その他一切のことに信頼を失ってしまったひとびとにたいしては、指導と方向性をあたえた」と指摘した(同書P258-259)。


 いかがだろうか。以前にも先述したが、こういったフロムの指摘する要素は、かつて「貧・病・争」の人たちを取り込んで発展した創価学会組織についても似たような要素が十分あるといえるだろう。創価学会はいまもなお政治的実践として公明党の票取りを行なっている日本最大の宗教団体である。

 

  P68へ、続きます。
 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像1、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件

P40,  創価学会の体質、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(5)、言論出版妨害事件

P41,  人間たらしめる究極条件、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(6)、言論出版妨害事件

P42, 「師弟不二」という、池田大作への絶対的奉仕感情、王仏冥合から反戦平和へ転換

P43, 御供養精神から乖離した醜い争い、戒壇論が崩壊した正本堂意義、板マンダラ事件

P44, 池田本仏、仇討ちズムの総体革命、教義逸脱

P45, 増上慢な本仏、誤った「仏教史観を語る」、寺院不要論
P46, 昭和51年前後のマッチポンプ山崎正友や、御本仏池田大作の回りの微妙な関係

P47, 浜田論文や富士宮問題での様々な謀略

P48, 池田本仏の背景と構成要素、第66世細井日達の教義歪曲(1)

P49, 第66世細井日達の教義歪曲(2)、暗躍する山崎正友、内通する阿部信雄(後の阿部日顕)

P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」

P51, 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1)

P52, 時事懇談会資料の検討、謝罪演出と約束破棄、揺らぐ細井日達(2)

P53, 池田本仏論のおさらい、醸成されていた〝人〟の無謬化・絶対化

P54, 創価学会52年路線(池田vs日達)その後, 山崎正友と阿部信雄、ジャーナリズムの見解
P55, 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友

P56, 偽装和解だった11・7お詫び登山、教育者としての池田大作、会長辞任も偽装ポーズ、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(2)

P57, 創価の「師弟不二」の精神、サドマゾ的人間関係、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(3)

P58, 池田大作の独裁化進行、造反者続出、暴力団の利用後切り捨て

P59, 自分一人が「本物の弟子」、暴力団の利用後切り捨て(2)

P60, 人間革命の終わり、消えた非科学的奇跡的信仰体験、病気をする人間は信心が足りない…

P61, 虚妄のベール、原理主義的な学会員と隠れ会員、査問・除名ー切り捨てズム

P62, 池田大作入信神話と師弟不二、入信当時への生発言から小説人間革命までの比較検討

P63, 捏造・脚色の「創価学会正史」、自分の履歴も一部都合よく捏造し著作した池田大作

P64, 御本仏「池田大作」誕生、捏造神話を安易に採用した御用学者やジャーナリスト達

P65, 多くの池田大作著が代作、池田大作著「科学と宗教」とは乖離した欺瞞、造反者の告発と正眼の指摘

P66 池田大作・創価学会組織と熱烈な会員との、サド・マゾヒズム的共棲関係「師弟不二」

P67, サド・マゾヒズム的共棲――創価学会員や現代人の「自由からの逃走」