●80 万物一切根源の法――日蓮仏法の真の血脈 | ラケットちゃんのつぶやき

ラケットちゃんのつぶやき

ブルセラコスチュームで、あちらこちらに出かけてます。
最近は、主に富士山麓の山に登ったときの、雄大な富士山と、自身の写真をつけてます。
ブルセラアイドルの夢を見ながら、日常の現実に対するいろんな思いを綴ります。

●80 万物一切根源の法――日蓮仏法の真の血脈




久しぶりのコスプレ投稿画像は、富士山をバックに、大平山山頂からです。

 なお、拙記事が見やすくするため、ホームページ作成いたしました。

 

 

 よろしければ ぜひ お立ち寄りください。



 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P80, 万物一切根源の法――日蓮仏法の真の血脈
です。
 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


 日蓮は、生死一大事血脈抄の冒頭で、血脈とは南無妙法蓮華経(法則)と述べている。
 このページでは、一旦、その血脈である法則について、おさらい、更にアップデートしておく。

 初めに、その基底の法則となっている「一念三千」について、過去の記事をアップデートして以下に述べる。


【第一章】 一念三千

「生命」は、悠遠の過去から「もともと」存在していた(無始、始まりが無い、久遠元初)のであり、永遠の未来にわたって「終わりが無く」「変化しながら」存在し続ける(これを無終という、不滅とはあえていわないでおく)。

 全ての存在(現在の科学で観察可能なのは素粒子から大宇宙までだが、それを超える観察不可能な存在も含めて、その数は無限大)は、個別の「生命」でありながら、万物すべてを互いに重なり合い共有しながら、影響し合い、情報をやりとりしている。
 我々も含めて、あらゆる生命は、万物を共有しており、無始無終であり、変化しつづける。
 すなわち、万物の中に、無限大の数の生命が重なり合って、互いに共有(シェアして)いるのである。

 つまり、生命の物質的な大きさ:規模についていえば、我々の生命は万物と同じ規模のものであるが、その中のほんの点のような一部分が個人として顕在化しているに過ぎない。
 そして、顕在化して独自性・一貫性をもたらしている微小な部分を除いたら、全ての生命が、万物として重なり合っている・つまり万物を共有している・万物の生命と共通であり、つながり合っている。これを「冥伏」という。

 個別の「生命」には、主体と環境、肉体と心があるが、これらは対立するものではなく、生命の異なる側面にすぎない。
 すべての生命は、肉体と心が一体であり(色心不二)、その主体は、自身と周囲のものとが一体である(依正不二)。

 物質至上主義は、これらの一体性を無視して、肉体と精神、主体と環境、自然と人間を分離・対立させて考えてきた。
 その結果、人間は経済と科学の力を利用して、欲望のままに自然を支配し、環境を破壊し、人体を機械化し、生命の尊厳を軽視してきた。
 こうした結果、人類は、危機に直面し、考え方を変える必要があるが、多くの人は、豊かさや便利さや効率などに囚われて、人類のカルマである戦争やテロや災害や事故等で綴られた歴史の教訓を十分に学んでいるとはいえない。

(コメント1,2)

「生命」は、過去の思考や行動の結果として、現在の状態を形成し、さらに未来の状態に影響を与える因果応報の連鎖である。
 我々は、本有の「生命」を肉体として現世に顕現させ、やがて衰退して死に、再び潜伏する・・・これが生死の過程である。潜伏した「生命」は、縁によって、過去の原因を引き継いで、再び現世に生まれる。これが「業」(カルマ)である。
 このように、万物は変化し続ける(諸行無常)、肉体は生老病死を繰り返し、組織や自然や宇宙は、発生し、成長し、衰壊し、潜伏する(成住壊空)。

 生死は、物質的には、時間の経過とともに無から有へ、有から無へと見えるが、実際には、永遠の流れの中では一瞬である。現世とは生命の変化の一場面であり、表面から退いたり(死ぬ)出現したりする(生まれる、これらを若退若出という)ことの一場面である。
 心もまた、この生死の連鎖に従っている。
 つまり、私は万物の生命であり、万物の法則に従って、縁に触れて肉体として現世に現れ、個性を発揮し、成長(または堕落)しながら、再び潜伏する・・・このサイクルを繰り返している。
 肉体の物理的な大きさは、万物に比べれば無限小であるが、ゼロではない。肉体の存続する時間(寿命)は、万物に比べれば一瞬であるが、ゼロではない。5歳でも120歳でも、本質的には変わらない。変わるのは、その間に達成した生命の次元での質・価値(境涯)である。
 この一瞬の時間に、高度な精神活動ができる人間として生まれたことは、幸せで意味あることである。その神秘と尊厳に、驚嘆するしかない。
 しかし、せっかくその機会を得たのに、本能のままに富や長寿や名声に囚われ、人間としての生命的成長をなおざりにすることは、愚かで情けないことである。


「生命」は、十界と呼ばれる十種類の境涯(生命の状態)を持つ。それらは、死後の世界として説かれた地獄や天(天国)などの架空の世界ではなく、我々の現実生活における生命の状態を表す。

 それらは、以下のように分類できる。
 地獄は、苦しみに満ちた状態。
 餓鬼は、欲求不満に苦しむ状態。食欲や金欲などの欲望が強い。
 畜生は、本能に従う動物の状態。弱者をいじめ、強者にへつらう。
 修羅は、闘争に没頭する状態。勝利のためには何でもする。個人や集団の対立が多い。
 人は、平穏な状態。人間としての命を生きる。
 天は、喜びに浸る状態。欲望や闘争が一時的に満たされるが、長続きしない。
 声聞は、知識を求める状態。世の中の道理を聞き、学ぶ。
 縁覚は、真理を悟る状態。声聞の段階から、ある真理の一部を見つける。
 菩薩は、利他的な状態。他者の幸福のために奉仕する。無条件の愛を持つ。
 仏は、「生命」としての最高の状態。常に限りなく完成を目指す理想的な生命の活動や人格を示す。すると全ての行動が価値ある結果をもたらし、全ての思いや言動が人々を幸福に導く。
 驚くべきことに、仏の境涯は、全ての「生命」に備わっている。万人が仏になれる可能性がある。
 そして、それぞれの境涯には、次の瞬間に向かう十界が「空」の状態で備わっている(冥伏している)。これを十界呉具という。



 それぞれの境涯には、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究境等という十如是と呼ばれる様相性質がある。
・・・人間の例で言えば、相は外見や肉体、性は性質や性格、体は目に見えない部分も含む肉体、力は持っている力、作はその効果、因は内的な原因、縁は外的な原因、果は内的な結果、報は現実化した結果、本末究境等とは、前9者が空の状態で平等に存在することをいう。
 また、各々の境涯には、五陰・衆生・国土という三世間と呼ばれる3種の環境世界がある。
 五陰世間は肉体環境、衆生世間は人間関係や社会、国土世間は国や地球や宇宙である。
 これらを総合すると、「一念三千」という。
 「一念」とは一瞬一瞬の「生命」の状態であり、それを3000(10界X10界X10如是X3世間=3000)の要素に分析したものである。
 この分析によって、因果応報の性質や論理が明らかになる。
 「生命」は、これらの境涯を一瞬一瞬変化しながら回る実相である。これを「一念三千」という。
 我々の日常は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の境涯を縁によって回っている。
 時々声聞・縁覚・菩薩の境涯にも行く。
 しかし仏の境涯にはなかなか行けない。
 欲望が満たされたときの喜びは、天の境涯であって、すぐに新たな欲望によって四悪道に落ちる。

 物質至上主義の現代文明は、欲望と競争に満ちており、核兵器やテロや生命操作や自然破壊などの危機に直面している。
 不幸の原因は、主に地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の境涯であり、高い成長を目指すのは声聞・縁覚であり、幸福をもたらすのは菩薩・仏であることは明らかである。



 人生の意義:使命とは、この短い人生で高い境涯に自身を成長させ、多くの生命に価値・幸福を与えることにあると考える。
 長生きしても、他人や社会に頼り、恵みを貪るだけの人生は、短命でも成長や貢献をする人生より、意義や幸福が低いと言える。
 富や権力や地位や名声や、社会条件・健康状態などは、価値の源ではなく、縁にすぎない。それらに執着すると、反価値的・不幸な連鎖に陥ることがわかる。
 人類の「生命」の歴史は、不幸をもたらす殺戮・侵略・闘争・搾取を繰り返してきたが、仏法の叡智は、それらを論理的に予言していたのだろう。
 仏法は、セツナリズム(刹那主義)・ニヒリズムを否定し、あらゆる生に意義を与えた。.


 現代の科学的合理主義は、神の創造という説明から、偶然や確率という説明へと変わってきたが、自然界を理解するには、それらに囚われる必要はない。
 偶然と思われるものは、必然であり、意味ある因果の連鎖である。これは永遠に続くのである。
 物質中心主義・唯物論では、死とともにすべてが無になるとすれば、この世での善や意義や使命は見失われやすく(虚無主義)、また、未来よりも現在の自分の楽しみを優先する(利己主義・刹那主義)になりやすい。
 人はなぜ人なのか。ゴキブリはなぜゴキブリなのか。蛇に飲まれた蛙、鷲に食われるネズミ、釣り針をのむ魚は、なぜそれぞれの姿なのか。
 なぜ生まれつきの差があるのか。なぜ善人は貧しく、悪人は栄えるのか。なぜ殺人や戦争は罰せられず、慈善やボランティアは褒められないのか。

 現世だけでは多くのことが答えられないが、仏法では、業と三世の生命観で答えを出している。
 生死、生老病死という苦しみは解決され、それ以上に、仏・菩薩という、「生命」として最高の状態(境涯)が、すべての「生命」に本来備わっている(「空」の状態である)ことを示し、貪り・怒り・愚か・慢心・悪心・疑いを捨て、愛・慈悲・智慧・善・信・正義などの行為で、より高い目的を達成するように、人々を導いているのだ。
 どんな環境でも、本能に従う「動物」ではなく、高度な精神活動を行う「人間」として生まれたことは、「生命」の次元で真の「価値」を「創造」し続ける意味・意義・使命を、与えられていると気づくべきである。
 ブラフマンや神など、森羅万象を支配する永遠不滅の実体や、「他者」に、因果の理由を求める必要はない。
 天国・地獄・ユートピア・西方極楽浄土など、さまざまな世界や人格神などの描像は、人倫を保つための架空の物語である。
 仏教の中に説かれている世界は、方便の教え(権教=仮の教え=真実の教えを理解するための前準備の教え)の中のものであり、人々を一時的に導く比喩や哲学的な象徴としての役割は果たせるが、仏陀自身は、これらの教えを明確に方便であると否定している。(仏陀の教え五時八経で、最後の法華・涅槃時に説かれた無量義経で、四十余年 未顕真実、さらに法華経方便品にて、正直捨方便 担説無上道、と説いて、それ以前に説かれた教えは真実の教えではない、正直に方便を覆して、ただ仏に成る道=真実の仏法をこれから説くとある)
 そして、そこに説かれている「生命」の真理と、あらゆる不幸を克服して「生命」として最高の境地である「仏」という人間になる方法が明らかにされている。



 近代科学の発展に伴い、西洋ではキリスト教神学の矛盾が明らかになり、ルネサンスが起こった。
 科学的に客観的事実とされるものに基づく物質至上主義が、人間の無限の欲望・野望によって推進され、富とテクノロジーによる大文明を築いた。
 しかし、その一方で、物質的時間的効率を優先し、便利さや快楽を追い求めるあまり、制御不能な貪欲が青天井に拡大し、核兵器・戦争・テロ・差別・貧困・病気などの倫理的危機や自然破壊が進み、人類の存亡が危ぶまれるようになった。
 命の尊さを軽んじる風潮は、大人だけでなく子供にも及び、殺人や自殺が容認されるようになった。
 物だけでなく、人や労働者も使い捨てにする経済効率最優先の現代文明は、深刻な危機に直面している。
 神などの「他者」に依存するのではなく、科学的合理的な常識に従う人類は、根本的な説得が困難であるのが、歴史的事実である。
 幸福を目指して、科学が探ろうとするものも、直感が示すものも、万物の「法則」に他ならない。

「法によって、人によらざれ(依法不依人)」と、仏法は説く。
 これは、あらゆる教え、特に仏法内で教えの正否や高低を判断する基準として説かれた言葉だが、仏法だけでなく、何事にも、「真の法則」に従うべきであり、情念に左右される「人(自分や他者や他の実態も含む)」の恣意的な判断に基づいてはならないとの教えである。
 万物の法則、幸福への実践はもちろん、あらゆる分野・世界においても、共通する道理である。
 自身の不幸や不遇の原因を、他者や環境のせいにするという、多くの人が陥る連鎖からは、環境も「自己」、すなわち、自身の「生命」の全体として捉えることで、脱することができる。
 環境も主体も、物も人も、動植物も人間も、すべてが自身の責任における自身の「生命」であるという視点から、戦争や暴力の報酬や自然破壊の連鎖から抜け出すことができる。
 他者ではなく、自分自身がまず変化をすること・・・これが、自身の幸福から世界の平和の実現への、根本的な鍵であることを、仏法は教えている。
 驚くべきことに、3000年も前に直感的に説かれた叡智が、今、科学的手法で証明されつつある。
 今世紀に入っても人類の叡智である、さまざまな分野の専門家が、仏法の叡智から、万物の真実を見極めようとしています。
 これらの叡智が、科学的合理的な説明の範疇で、どのようにして、仏法の叡智に迫ろうとしているのか、そしてその探求を通じて、自身の生の意味をいかに見出しつつあるか、とても興味深い。
 そして、これらの叡智によって、人類は、きっと、自身の悪業を転換し、暴力・搾取・報復・支配の連鎖から脱し、慈悲と愛の行為によって、欲望をコントロールして自然と共存しつつ、危機を脱する日が来ることを、期待する。





【第二章】


 次に、日蓮が生死一大事血脈抄の冒頭で、血脈とは南無妙法蓮華経(法則)と述べている、その血脈である法則について、おさらい、更にアップデートしておく。
 第一章と一部重なるが、重要な点であるので、くり返し、述べる。


 人間の肉体は、精子と卵子の結合から始まり、母体の中で細胞分裂を繰り返して胎児となり、出産される。
 これが人の出生である。
 その後も親からの栄養と教育を受けて、肉体的・精神的・社会的に成長し、自分の個性や信念を持って生きる。
 しかし、やがて肉体は衰えて事故や病気に遭いやすくなり、いずれは活動を停止する。
 これが人の死である。

 人の一生は、物質や精神活動が常に変化しているが、一個の生命としての一貫性が保たれている。
 肉体は呼吸や新陳代謝により構成の物質を一瞬一瞬で入れ替え、原子や素粒子のレベルでは一か月でほとんど別のものになる。
 しかし、生命としての自分自身は変わらない。
 精神活動も、感情や記憶の変化で一瞬一瞬違うものになる。 しかし、自分自身という生命としての独自性は変わらない。

 つまり、肉体や精神の構成内容は変遷しても、一個の生命としての法則性は変わらない。

 生命とは何か。
 巷の霊魂不滅説は非科学的な迷信である。
 存在するのは「自分という法則」のみである。
 受精前後や臨終前後でも、質量や活動は変わっても、自分という法則は存在し続ける。
 自分という法則は、自分を取り巻く環境や宇宙全体とも関係している。
 唯一続いていくのは「法則」である。仏法では、これを「法身」という。
 最近流行のニューサイエンスでは、生命をホログラムに譬えているのもある。

 自身と周囲を分けて考えるのは間違いである。
 自身と環境は一つの実態・一つの法則である。
 現象世界には消えたり現れたりするものがあるが、それはすべて元から存在する原因によるものである。
 生死は、自分という法則が現象世界に現れたり去ったりする現象である。
 水面を境にしても、全体としては元から存在するのである。これは、仏法でいう「生死不二」「依正不二」という概念である。

 最先端の量子力学はこれを支持する。
 生命を構成するものは、空間の中をすり抜ける素粒子や光子・電子などの在り方であり、法則に基づいた場やエネルギーである。そこには法則しかなく、すべては「法則のおりなす有様」である。(*1)(*2)(以下*はコメント3以降に掲載)



■十如是・三世間


 一瞬における万物や生命の詳細な観察は、素粒子から宇宙まで、すべてに以下の要素があることを示す。
a)表面の観察様相
b)独自の性質
c)観察され得ない実体
d)内在する力やエネルギー
e)d)が内外に及ぼす作用
f)内的原因(次の瞬間の状態につながるもの)
g)外部からの原因(次の瞬間の状態につながるもの)
h)内部への結果(f)・g)による)
i)それが表面化した結果
j)以上のすべての要素が過去から未来へ一貫して続くこと

 そして、それぞれの実体が自己と周囲との関係は、以下の様相を持つ。
k)個別の内的世界の様相
l)周囲の自然環境の様相
m)周囲の社会的環境の様相

 これらの要素と様相により、全存在は科学的な因果の法則に従って変化する。
 これは仏法でいう諸行無常・因果応報である。
 物体の内的作用と外部の現象作用は、見方は異なるが一つの実態である。
 物体と環境も、見方は異なるが一つの実態である。
 原因と結果は同時に一瞬に存在し、次の因果へと繋がる。
 これは過去から未来へ際限なく続く。こうして、地球も宇宙も、生物も人間も、現象世界に出たり入ったりする。

 結果のないところに原因はなく、原因のないところに結果はない。

 また、モノや法則の始まりや終わりを設定すると、それ以前や以後の因果を否定することになり、科学的に矛盾する。
 因果の法則は不変であるから、物質は消滅しても発生する。(量子力学などで証明済)(*2)
 つまりは例えば、宗教のドグマや、一部の現宇宙の発生モデル等は、どんなに理路整然に装っていても、科学的に矛盾するのである。

 自分という生命は、生まれる前に原因があって生まれ、死ぬ前に原因があって死ぬ。
 そして死後も何らかの形で生を発する。
 ちなみに一個の生命が複数で発現することはない。
 分離した時点で、別個の生命である。
 因果を過去に遡ると、 人類や生命や地球や宇宙の発生、さらには無数の宇宙の発生が見える。

 -∞の過去に遡っても、その時点で現在と同じ法則に基づいた結果があり、その因果は+∞に遡ることができる。どこまでいっても∞である。こうでなければ、自然法則ではない。(これ以外は都合の良いコジツケである。)

 つまり、それらも個別の法則として-∞から+∞まで、因果を繰り返して存続する実体である。(*4)(*6)
 私という生命も、「私という法則」であって、その有様である。
 私も、あなたも、単細胞生物も、分子化合物も、素粒子もすべて、-∞の過去の時点で無数の宇宙のどこかに存在し、縁をしていたかもしれない(上記g)に相当する)。そして、その時点でも、-∞に過去があり、+∞に未来がある。(*4~*6)


 私はなぜ私なのか。
 あなたはなぜあなたなのか。
 人間はなぜ人間なのか。
 ゴキブリはなぜゴキブリなのか。
 (私の買った宝くじはなぜ当たらないのか…)
 これらの問いは、すべて因果の法則で答えられる。
 すべては-∞からの因果の現れであり、+∞への因果の予測で完結できるのである。
 同じものは存在せず、同じ結果は起こらない。
 だからこそ、すべては尊厳である。
 これこそ生命の尊厳の法則である。

 そしてこれこそ究極の、現象面の科学的法則である。



■十界互具

 生まれてきた意味は何か。
 因果を繰り返す意味は何か。

 これらの意義、哲学的意味を考えるとき、万物のそれぞれには、以下に分類できる、一瞬における感じ方・共鳴状態があることが分かる。

o)周囲や自身による縛られ圧迫され切り刻まれ焼かれ飛ばされ破壊され・・・などの無限のカオス。熱力学の法則に従うカオス。
p)自身や周囲の目標や営みが未達成で苦しい状態
q)自身や周囲の目標や営みに無関心で流される状態
r)自身や周囲の目標や営みに競争して優位になろうとする状態
s)自身や周囲の目標や営みに調和して摩擦が少ない状態
t)自身や周囲の目標や営みが一時的に達成された状態
u)自身や周囲の目標や営みの意義を探ろうとする状態
x)自身や周囲の目標や営みの部分的な意義を洞察した状態
y)自身や周囲の目標や営みを変えて周囲の目的や利益に貢献する状態。これは自身の成長にもつながる。
z)自身と宇宙一切が完全に調和し、最高に充実した状態。

 これらの状態は、物体の速度に例えられる。周囲からの刺激で瞬間瞬間変わる。o)~z)の間を止まらずに変遷する。z)になるのは稀である。各状態には、次の状態に移る傾向性がある。同じ刺激でも、傾向性によって増強・減弱や移行が起こる。

 これらは物体の加速度に例えられ、未来の志向である。

 その積分は過去∞の因果の積み重ね(業)である。
 その積分値は全結果を含んだ∞であるが、今の一瞬に表現される。
 その一瞬の状態は次の瞬間への微分値も示し、それらが「因」となって「果」が結びつき、変化を続ける。
 その一瞬の状態には、-∞の因果と+∞の可能性がある。
 これが時空を超えた、万物一切根源の法則である。

 奇跡と思える地球の、平和な日本に、人間として生まれ、元気に生きているのも、また、不幸な境遇に生まれたり天災地変や地域紛争に巻き込まれたり努力が報われない、また、身近では宝くじが当たらない、人から裏切られたりするのも、これらすべて、積分値である果報が現れた結果である。これらは素粒子のレベルで記録され、∞バイトメモリーとなっている。(*6)(*7)

 都合の悪いことは、偶然・遺伝・不運・理不尽などといって悲しみ、同情し、忘れることもできるだろう。
 だが、それでは、永遠+∞にこの流れから抜け出せないだろう。
 すべては自身が積んだ果報であると受け入れ、未来への一歩となる最適行動を起こすことができる。
 否定・見込み違い・期待や落胆では、未来を変えられない。

 そして、その要点は「z)自身と万物一切が完全に調和し、最高に充実した状態」である。-∞から+∞のどの瞬間でどの状態にあっても、その瞬間に最高の行動があるはずである。その行動こそ生命として最高の状態(真の幸福というべき状態)である。



■一念三千

 実は仏法では、a)~j)は十如是、k)~m)は三世間、n)~z)は十界と呼ばれる概念であり、十界互具という法則によって、一瞬の生命(一念)に三千世界が具わっていると考えられる。
 これは、一念三千という表現で、生命の科学的な側面を示している。

 一念三千を仏法用語で説明すると、一瞬の時点で、素粒子から宇宙までのすべての存在について、
a)如是相:外見や形態
b)如是性:特性や性格
c)如是体:本質や実体
d)如是力:内在する力や能力
e)如是作:外に現れる作用や動作
f)如是因:内的原因
g)如是縁:外的原因
h)如是果:内的結果
i)如是報:外的結果
j)如是本末究竟等:a)~i)が一貫して過去から未来へ続くこと
 という十の要素がある。
 これらを十如是という。

 また、各存在の実体は、自己と周囲との関係によって、
k)五蘊世間:個別の内的(肉体的精神的)世界
l)国土世間:周囲の自然環境
m)衆生世間:周囲の個人や社会との関係
という三つの世界に分けられる。これらを三世間という。

 さらに、一瞬の生命の状態は、
o)地獄界:苦しみに満ちた状態
p)餓鬼界:欲望に飢えた状態
q)畜生界:本能に従った状態
r)修羅界:競争や対立に囚われた状態
s)人界:平穏な状態
t)天界:満足な状態
u)声聞界:真理を求める状態
x)縁覚界:真理を部分的に得る状態
y)菩薩界:他者の利益のために行動する状態
z)仏界:進歩に向かう万物と調和し、完全に充実した状態
という十の界に分類できる。これらを十界という。(*8)

 十界はそれぞれに十界を含んでおり、これを十界互具という。

 したがって、十界x十界x十如是x三世間=三千世界が、一念に具わっているのである。これを一念三千という。

 これは、一念の中に永遠の因果と可能性を見ることができる、生命の普遍的な法則である。

 十如是・三世間は、色心不二・依正不二・因果俱時という原則を含んでいる。

 すべての存在と生命は、科学的な因果の法則に従って変化し、諸行無常・因果応報である。
 物質と精神は、見方は異なるが実は一つの実態であり、これを色心不二という。
 物質と環境は、見方は異なるが実は一つの実態であり、これを依正不二という。
 原因と結果は同時に一瞬に存在し、次の一瞬への因果につながる。これを因果俱時という。


 一瞬の生命の状態を、数学的に見ると、十界は、生命の速度や勢いを表す。
 十界互具は、速度の微分で加速度やエネルギーを表す。
 その積分値は、過去の宿業の累積で現在の結果を表す。
 o)地獄界~r)修羅界は悪業の蓄積である。
 y)菩薩界は善業の蓄積である。
 すべては自分の行為の結果であり、悪業は現世で報いられなければ来世に持ち越される。
 現世で恵まれるのは、過去世~現在までの善業の福運である。
 現世の不運・逆境は、過去世から現在までの行為の結果そのもの(悪業)である。
 だから、利他行動によって善業を積むことが必要である。
 そのためのy)菩薩界である。

 生老病死の流れで、肉体も精神も更新し続け、生死を永遠に繰り返し、過去の宿業も未来の成仏も、三世にわたって更新する。
 その独自の生命体は、一つとして同じものはない。
 それぞれに仏界を含むからこそ、最高に尊厳なる生命である。

 このように、自然科学的解析と境涯の解析は、今世を超える範囲が科学的解析の範囲を超えるため、現実をすべて受け入れながら、純粋な科学的理論による法則を「信じる」しかない。
 だからこそ、ここに、幸福を志向する真の宗教の意義がある。



 天台大師は、理論的にはz)仏界という最高の生命状態(絶対的幸福)に至ることができると解釈したが、現実的には非常に困難であると認めた。彼は、観念観法(一種の瞑想)でこの困難を克服したとされる。

 しかし、実は過去の-∞の時点で、一般の生命状態からz)仏界に至った生命が無数に存在していた。これは、この法則が自然法則であることを示す。(仮に、無数にいなかったとしたら、この法則は自然法則とはいえなくなる)(*9)

 この最高の生命法則を、インドの釈尊が部分的に達観し、期間限定・対象者限定の法として説いたのが原始仏教である。
 その法が終わる末法の時代には、地涌の菩薩が直接この法則を説くと予言された(ただし、これら文献として残っているものは、先述してきたことからも明らかなように、後世の脳のよる様々な願望や思惑が含まれた修飾・捏造の産物である)

 ほぼその予言通り、日本の鎌倉時代に日蓮が現れ、この法則を「南無妙法蓮華経」と名付けて明らかにした。(*10)~(*16)

 「南無妙法蓮華経」とは、万物一切根源の自然法則の名であり、これを唱えることで、誰でもz)仏界に至る(即身成仏)ことができる。これは、z)仏界を基盤としたo)~y)の境涯を意味し、万物の流れ・智慧・慈悲などの価値的な情報と連動する。

 日蓮は、凡夫のままで「最高の法則」を語り、それを理解しない周囲や国から迫害を受けた。(*17)
 彼は、何度も凡夫のままで即身成仏し、仏界の境涯を示しながら、「南無妙法蓮華経」という修行法を、弟子・檀那や煩悩に染まった一般人に説いた。

 それは、最期まで続けられた。彼は闘病の旅中でも、池上邸の柱にもたれながら立正安国論を講義した。

 彼の死後は、様々な門下が後を継いだ。
 しかし多くは、釈迦や日蓮を「本仏」(絶対者)として崇め、一般人は本仏に帰依しなければ成仏できないという、誤った教えに陥った。(*18)
 先述した通り、正しく受け継いだようにみえた日興門流でも、日寛前後以降は教学的に誤った血脈観が流れた。
 戦後その中から創価学会が出現したが、その教義は日蓮正宗に破門され創価ルネサンスを得ても、結局誤った血脈観と俗世にまみれた師弟観にすぎなかった。

 この万物一切根源の法は科学的法則であるから、絶えずその法則は更新し続けられる。
 いまこそ上記に示すような真の日蓮仏法に立ち返り、それを更新していかなければならない。

 日蓮の最期とは対極的に池田大作は、永遠の師匠とまつり上げられながらも、最後の13年間を自身の姿を見せられない状態となって、ほとんどすべての会員や一般人から姿をくらまして過ごし、反面彼を元気な姿として創価学会組織が演出し続けたことは想像に難くない。死亡説さえささやかれていたほどだ。
 池田大作は法主本仏論に対して「人間主義」とも言っていたが、この歴史をみても真の日蓮仏法を信奉しているとは到底言えず、教学的な再構築もほど遠い。「法華経の肝心…に南無し…」という観念文に、そのことが表れている。(*19)

 自業自得・因果応報とはまことに厳しい法則である。
 創価学会がみずからの敵を「仏敵」と称するのも、「仏」に特定の人物を想定しているからこそであり、言論をはじめとした様々な暴力や排除を生む。
 会員の中には、中堅幹部であっても、旧来的な日蓮本仏・マンダラ御本尊本仏と崇めて祈るだけで、現世利益成就という欲にまみれた組織の中で真の成仏への現実行動を起こさない人が多い。その結果、衰退の一途をたどっている。


 この最高の生命法則は、特定の本仏や本尊を崇めるものではない。
 あくまで「南無妙法蓮華経」という「万物一切根源の法」を唱えることで、誰でも最高の生命状態(仏界)に至る(即身成仏)という法則である。
 いわゆる御本尊というマンダラはあるが、あくまでこれは自身の生命を映す鏡(その中には仏界も含む)、すなわち信仰のための単なる道具にすぎないのであって、信仰の対象は万物一切の法=南無妙法蓮華経である。
 だから、道具を神聖視したり限定したりする必要も意義も全くない。
 ちなみにこの文字で描かれたマンダラは、日蓮が「万物一切根源の法」の一例として法華経の虚空会の儀式を描いたものである。

 くり返すがそれは、文字で描かれた最高の生命状態・生命法則を表すマンダラであるが、自分自身の最高の生命状態を映す「鏡」にすぎないのであって、本物の最高の生命状態(仏界)は、元々自分自身にあるものである。
 それは先述したが、全てを投げうって限りなく完成を目指す一念であり(*20)、それが最高の生命状態として具体的な行動につながると、現実が内外ともに最高に価値的なものに変わっていく。これを、九界即仏界、凡夫即本仏、煩悩即菩提、信心即生活等というのである。

 マンダラ本尊は、この意味を理解すれば、相貌に合わせて、いつ誰がどのように書いてもいいものであり、万物一切根源の法として相当なものである。なぜなら、それは「法則」であり、誰が書いても意味が変わらない科学的な方程式であるからだ。芸術的であっても下手であっても相当。意味は同じだからだ。これに特別な意味や権威付けをすることは、真の日蓮仏法に反する。

 そして、その志向先は万物一切根源の法であり、仏界を基盤にするから、具体的には「自他ともに」実現する「幸福」となり、菩薩の行動=慈悲から生まれる利他行動そのものである。

 だから、行動を起こさなければ、結果は出ない(現実は変わらない)のは、当然である。

 こうした万物一切根源の法則に立てば、未来永遠に現実を価値あるものに変えていける。様々な困難を克服し、種々の目標を達成し、崇高な使命を果たすことができる


【第三章】

 科学史や仏教史の詳細は割愛するが、ここで重要な視点を提示したい。
 それは、「南無妙法蓮華経」という言葉は、この宇宙のこの地球上の人類に特有の表現であり、他の宇宙や他の時代の文化的生物には適用できないということである。
 この言葉は、「万物一切根源の法」を指すが、その法は仏法だけではなく、科学やAIなどの新しい知識や技術によっても表現しなおしても良いものである。
 その場合、日蓮教団や創価学会は、それを受け入れることができるだろうか。(*23)

 また、自然科学の限界として、生命の科学的分析は今世に限られ、生命の全体的把握は理路整然とした法則を信じることに依存する。
 なぜマンダラに手を合わせて南無妙法蓮華経と唱題すると仏界が現れるのか、その詳細なメカニズムは今のところは不明である。
 南無妙法蓮華経は漢字であるが、サンスクリット語でも英語でも他の一切の言語による表現であっても同じ効果が期待できる。なぜならその定義を信じることで人知を超えた智慧を得るというのが「以信代慧」であるからだ。

 信じることによって、万物一切が動いている。
 肉体の痛みに対して鎮痛薬以外の無効な薬や注射でも、鎮痛効果があることがある。これはプラセボ効果と呼ばれ、最近では「意味反応」として研究されている。
 これは、何かを信じるという行為が、ある一定の割合で物理的現象を引き起こす現象である。信じる対象は何でもよく、サプリメントや健康法、占いやカウンセリングなどにも適用できる。まさに「信ずる者は救われる」効果である。
 しかし、信じる強さや対象によって効果の強さや範囲が異なり、悪い結果を招くこともある。
 盲目的で理不尽な信仰や信頼は、悲惨な結果を招く。
 詐欺師や悪徳集団を信じて行動した悲惨な結果は自明である。
 経済や社会活動においても、信じるものや相手が信頼できるかが問われている。仮想通貨や株や不動産や企業や人材など、信用度が常に変化する対象は、何を信じるかによって、現実が変わる。
 だから、信じるものを選ぶこと、正しい信仰を持つこと、すなわち、広く大きな意味で「信」・「信仰」の在り方が問われている。悪い人や対象を信じた結果の悲惨さは、因果の法則によって必ず現れるからである。

 それでは、信じる対象が、矛盾のない理論や正しい科学的道理に基づいた法則であればどうであろうか。
 それを信じる効果は、その実体が一部(生まれる前や死後などで)検証できなくても、他の信じる対象に比べてはるかに強力な意味反応を持続的に生み出すと言える。その効果は時空を超えて、信じる一念の強さに応じて変化する。

 それが万物一切根源の法であれば、その一念は自分だけでなく周囲の環境(他者、社会、自然環境から宇宙全体)すべてに利益をもたらす行動につながるはずだ。
 つまり、自他共の幸福へ、一切衆生(無機物から生きとし生けるもの)の幸福へと結びつく。
 具体的には、野放図な欲望や自分勝手な行為が抑制され、周囲の人間や社会への貢献行動となって、現実変革が実現する。 この波は社会的に広がっていき、様々な困難な問題の解決、社会全体の福祉向上、地球環境破壊の抑制、国家間や地域の紛争の解決などに結びつき、人類の様々な困難を克服し、世界平和の実現、地球環境の保存、人類全体の共存繁栄へと連動していくことは確かである。

 信じる対象が、時空を超えて普遍的な「万物一切根源の法」であれば、その意味反応の結果が価値的にならないはずがない。

 この、普遍的な「万物一切根源の法」は、仏界という、自己の生命にある最高の価値的状態を明らかにする、いわば最高の「生命の尊厳」の法である。これがすべての生命に本来備わっているから、尊厳なのである。尊厳の根拠を、生まれた国や住んでいる場所や社会的身分などに置かない、完全なる自由・平等の法則である。

 これこそ、絶対的他者の存在という幻想にとらわれない、最高の生命尊厳の法則である。

 意味反応とは、信じる者が自らを救済する反応であり、信心の強さに応じて変化するものである。日蓮は「ただし、ご信心によるべし」と述べている。(*19) 
 しかし、「万物一切根源の法」は、意味反応だけでは説明できない、不思議な、人知を超えた法則であると考えられる。

 現在の、自分自身や人類全体の生命に関する観測や見解は、完成されたものではなく、今後も絶え間ない精進によって更新され、深化され、発展されていくものである。
 基本・根本は不変であるが、その理解は永遠∞に未完成である。その理由は、この地球に生まれた生命体が、「万物一切根源の法」に帰依し、成長しようとする本性を持っているからである。

 どんなに混沌とした困難な状況でも、実はその中に「万物一切根源の法」に帰依し、成長しようとする瞬間があるのである。それこそが最高の幸福である=即身成仏の現象であると言えないだろうか。

 日蓮の遺文に「世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし」(佐渡御書P957)とある。
 《一般に、人が恐れることは、火に焼かれること、刃物に刺されること、そして、自分が死ぬことである(現代語訳)》

 また、「始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり(御義口伝P788)」
《初めて自分の心が本来の仏であると知ることを、大歓喜という。すなわち南無妙法蓮華経を唱えることは、自分自身の即身成仏であり、歓喜の中の大歓喜である(現代語訳)
 とある。

 とにかく、どんなに理屈が正しくても、現実は、そのまま受け止めて、自分の力で変えていくしかないのである。
 迷いの多い中で試行錯誤しながら完成に向かって努力するのである。
 これが凡夫(一般人)、すなわち一切衆生の本来の姿(各々の原理)であり、これこそが、未完成ながら限りなく完成へと志向し努力するという「仏界」の境涯であるからである。
そのための南無妙法蓮華経(共通の行動原理)である。
 元から、完成された姿(理想的な姿の神や仏、絶対者や創造主など)は存在しないし、それによる救いも一切無いのである。

 この視点からすれば、現実逃避や罪の償いで死を選ぶことは、無意味であるだけでなく、その行動の機会を失って、有害になることである。
 ∞の時空では、次の誕生先候補である無数の宇宙があり、それがどれだけ遠い未来であっても∞に対しては一瞬であるから、一瞬が輝いていれば、一瞬で次の生を受け、すなわち永遠に輝くのである。(*24)

 善を行い悪を断ち、正直にまっとうに生きれば「生も歓喜」である。
 たとえ志半ばで肉体が滅びても、一瞬先の誕生で因果を引き継いでいけるので、後悔することもなく「死も歓喜」である。
 まさに「生も歓喜・死も歓喜」なのである。(*25)



 ただし、先述もしたが、こうして死を語り研究できるのは生――すなわち生きている間のみであり、死の期間――すなわち墓の中からでは、死後の期間の真実や体験は一切語ることができないのである。なぜなら、その期間はその生命にとっては「無い」に等しいのであり、一瞬で過ぎてしまうからである。
 死を語り研究できるのは、生命の期間で生きている間だけの特権であり、だからこそ、この貴重な期間を、完成を目指すことなく無為に過ごすことは無念で、後々永遠に後悔を残す。
 日蓮も同様の趣旨を述べている。また古今東西の先哲も、同様の思いだったのであろう。


 次のページからは、日蓮の血脈から見た先哲たちの万物統一理論への思索、またそれらから見た日蓮の血脈について述べていきたい。

 

 

  P81へ、続きます。

 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像1、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件

P40,  創価学会の体質、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(5)、言論出版妨害事件

P41,  人間たらしめる究極条件、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(6)、言論出版妨害事件

P42, 「師弟不二」という、池田大作への絶対的奉仕感情、王仏冥合から反戦平和へ転換

P43, 御供養精神から乖離した醜い争い、戒壇論が崩壊した正本堂意義、板マンダラ事件

P44, 池田本仏、仇討ちズムの総体革命、教義逸脱

P45, 増上慢な本仏、誤った「仏教史観を語る」、寺院不要論
P46, 昭和51年前後のマッチポンプ山崎正友や、御本仏池田大作の回りの微妙な関係

P47, 浜田論文や富士宮問題での様々な謀略

P48, 池田本仏の背景と構成要素、第66世細井日達の教義歪曲(1)

P49, 第66世細井日達の教義歪曲(2)、暗躍する山崎正友、内通する阿部信雄(後の阿部日顕)

P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」

P51, 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1)

P52, 時事懇談会資料の検討、謝罪演出と約束破棄、揺らぐ細井日達(2)

P53, 池田本仏論のおさらい、醸成されていた〝人〟の無謬化・絶対化

P54, 創価学会52年路線(池田vs日達)その後, 山崎正友と阿部信雄、ジャーナリズムの見解
P55, 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友

P56, 偽装和解だった11・7お詫び登山、教育者としての池田大作、会長辞任も偽装ポーズ、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(2)

P57, 創価の「師弟不二」の精神、サドマゾ的人間関係、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(3)

P58, 池田大作の独裁化進行、造反者続出、暴力団の利用後切り捨て

P59, 自分一人が「本物の弟子」、暴力団の利用後切り捨て(2)

P60, 人間革命の終わり、消えた非科学的奇跡的信仰体験、病気をする人間は信心が足りない…

P61, 虚妄のベール、原理主義的な学会員と隠れ会員、査問・除名ー切り捨てズム

P62, 池田大作入信神話と師弟不二、入信当時への生発言から小説人間革命までの比較検討

P63, 捏造・脚色の「創価学会正史」、自分の履歴も一部都合よく捏造し著作した池田大作

P64, 御本仏「池田大作」誕生、捏造神話を安易に採用した御用学者やジャーナリスト達

P65, 多くの池田大作著が代作、池田大作著「科学と宗教」とは乖離した欺瞞、造反者の告発と正眼の指摘

P66 池田大作・創価学会組織と熱烈な会員との、サド・マゾヒズム的共棲関係「師弟不二」

P67, サド・マゾヒズム的共棲――創価学会員や現代人の「自由からの逃走」

P68, 池田大作と創価学会組織内でのサディズム・マゾヒズムの検討

P69, 永遠化される俗世の師弟と仏法本来の「師弟不二」、真に信じるに価する宗教とは

P70, 師弟不二アップデートの試み(1)、私の創価学会体験

P71, 血脈アップデートの試み、創価学会組織の社会的性格(1)

P72, 創価学会組織の社会的性格(2),心理的分析,『独創性』の欠如,ミヒャエル・エンデの描写

P73, 創価学会組織の社会的性格(3),教祖と信者、利用者たちの心理学的分析

P74, 創価学会組織の社会的性格(4), 自由,独自性,創造性,真の理想と犠牲,真の自我の確立(仏界)を目指す指針

P75, 日蓮の成仏観と瞑想(1),血脈と師弟,アニミズムの凡夫本仏論

P76, 仏性や境智冥合の説明も,結局,宇宙意識と一体化を説くアニミズム,臨死体験,神秘体験

P77, 神秘体験に関与する神経学的システム、科学の知見も感情の積み重ねの産物

P78, 日蓮の成仏観と瞑想(2),アニミズムとの違いは「法」への帰命

P79, 日蓮の見逃し,一なるものへの合一,神経神学の成果,瞑想のレベル,神話の形成,儀式の意味

P80, 万物一切根源の法――日蓮仏法の真の血脈