当時の魏国の名将といえば張遼、曹仁、于禁
こういった人たちの名前が挙がるのが当時の常識でした。

(ちなみに当時の名称として武将という記述は見当たらなくて
軍吏や武官と言われていたらしいです。 )


曹仁が武勇を轟かせたのはいつかといいますと、

赤壁の戦い後、周瑜は勝ちに乗じて江陵の城まで攻め寄せます。
江陵を守は曹仁を主将に他は牛金、陳矯でした。

初戦曹仁は呉の陣営が整わない様子を見て
牛金に200の兵を授けて城から打って出させましたが
多勢に無勢であっというまに包囲されてしまいました。

それを櫓の上から見ていた曹仁は怒って
自ら40騎ほど率いて城から出撃してあっという間に包囲を破り見事に救出して凱旋して帰還しました。

この戦いで攻囲側の戦意は地に落ちて
以後1年間曹仁は何倍もの呉兵を相手に乏しい武器、食料で戦い抜きました。


孫子に『戦は気』とあるように
戦う気をなくした兵はそれは最早兵ではなく烏合の衆です。
でもそれをよくまとめ戦い抜いたことを後に大いに賞賛され
すぐに1軍を任されました。

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曹操が漢中を討伐しようとして兵を起こしたとき
西涼の諸豪族は自分たちに兵を向けられると勘違いして一斉に蜂起しました。
主な西方の諸豪族とは、馬超、韓遂、馬玩、張横、成宜、楊秋、程銀

などで兵力は10万を下回らないといわれました。


曹操が西涼に出陣しているときに前後して周瑜は江陵で苦戦し
逆に劉備は南3郡を抑え勢力を拡大していました。

孫権は東が手薄となった合肥へ10万を兵を向けました。
合肥には楽進、張遼、李典など7000の兵が詰めていましたが



薛悌がもってきた文書によると
「張遼、李典は外で、楽進は城を守れ」

と書いてありました。


なので張遼は800の兵を募り翌朝早朝

城を打って出ました。


10万が布陣する長蛇の陣に対し
800の部隊なんてゴミけらのようなもので

城から内通した兵士が投降して来るようにしか見えませんでした。
なので各所の見張りの兵士も誰も咎めることなく
なんと無傷で孫権の本陣に到着し
一斉に攻めかかりました。




呉兵はみるみるうちに数を減らし
孫権自身も危うくなりました。

このとき身代わりとなって戦死したのが宋謙であります。

呉は10万も兵士がいるため小競り合いの様子はなかなか全体に伝わりませんでしたが、
時間が経つにつれ呉兵が殺到してきたので

包囲を破り見事合肥の城に撤退しました。


この一戦で呉の士気は一気に落ちて結局孫権は撤退することにしました。

合肥を攻めて落としたら孫権は念願の九江郡の統一を果たせるわけで
そのための大出資だったのですが目論見外れというわけでした。


呉軍は撤退します。

そこをすかさず張遼が城から打って出て孫権本陣を痛撃して行きました。

またまた孫権の命が危なくなったとき今度助けたのは谷利でした。

谷利は戦後功績がたたえられ列侯に処せられたそうです。


そんな感じで呉は甚大な被害を出して

張遼の名を聞けば呉では泣く子も黙るみたいな感じで






あ-曹仁の弟の話がしたかったんだけど

曹純ていうのね。

また今度話すね。

豹騎兵っていうちょ-強い騎馬隊を率いてて
馬術、槍術は馬超に匹敵すると称された

曹純


演義では曹仁を助けに来たら周瑜に蹴散らされて
以後は登場しないと

おっと今日はここまで。