日清戦争の際に不衛生な水源により感染所が流行して、これに学んだ日本陸軍が開発した薬でした。

当時は脚気(ビタミンB1の欠乏症)も大流行していて脚気にも効能があると信じられていて、日露戦争に多く将兵たちに配布されていました。

それによって「征露丸」という俗称が付きました。本名はどうやらほかにあるらしいです。

ちなみに脚気って言うのは日清、日露戦争当時に日本で大流行した病気でした。

結果的に25万人の感染者、3万人の死者(陸軍内)を出してしまいましたが、
これは当時陸軍の医学者トップの森鴎外がドイツ医学に傾倒していて、脚気とはドイツ医学的に証明されてなかったために
「脚気には麦飯が効く」という実質調査を黙殺してしまったための結果でした。




ちなみに脚気で亡くなった人で有名なのは豊臣秀吉なんかがそうですね。


豊臣秀吉が死んで、徳川家康は当初、豊臣家と徳川家による二頭政治を目論んでいたらしいんですが、
どうやら2代目秀忠の出来があまりにも悪かったらしいので、結局豊臣家を滅ぼすことにしたらしいだとかなんだとか。

確かに、徳川秀忠のその軍事面に関する才能はその他の家康の子たちと比べると凡将といってよいでしょう。


早くに切腹させられてしまった松平信康、
庶子ゆえに疎まれた結城秀康、
島津豊久を打ち取るも島津の「薩摩の捨て奸(がまり)」となった鉄砲兵により討ち死にした松平忠吉


誰を見ても武勇に秀でた人たちでした。


ちなみに「薩摩の捨て奸」とは自軍が敗れた際に、たった一人、殿軍となり、後駆を務める、
捨て奸となった者は決して生き残ることはない非常な戦法です。

だがしかし、西軍に参戦してたった1600人の手勢で、関ヶ原から薩摩まで帰還できた島津義弘は、
この戦法なくしては生き残れなかったでしょう。

往時、島津義弘は九州の覇者でした。
島津貴久には嫡流に当たる4人の兄弟がいました。
義弘、義久、歳久、家久の4人です。


この中でも、島津歳久は朝鮮出兵に反対して、梅北国兼が反乱を起こした際に、島津歳久の家臣が多く加勢していたことから豊臣秀吉によって切腹させられています。
この出来事から薩摩藩士内では島津歳久を崇拝するという風潮が止まず、
たとえば

「安政の大獄にて錦江湾に追い詰められた西郷隆盛が、自身の覚悟として小舟の上で同乗していた僧月照に島津歳久の故事を語った後、心岳寺の方角へと手を合わせ闇夜の海に身を投じたエピソードが存在する」
という。

ちなみに西郷隆盛はご存知の通り、一命を取り留めて西南戦争で亡くなります。