矛盾という言葉がある。

この言葉の語源というのは「韓非子」に載っている。
韓非子は中国の戦国時代末期、秦の「招賢聘将」の制度により現れた諸子百家の一人である。
諸子百家の聖地はもとは斉の首都・臨淄である。
田嬰の子である田文(孟嘗君)が広く食客を養っていたことや、斉の威王が諸子百家の一人、公孫竜を重用してたことからそれは伺える。

しかし、同様に秦も五穀太夫・百里奚が西域に千里を拓き、20余国を併呑してから秦は中原諸国ではとても及ばない勢力をつけた。
中華に覇を唱えるべく莊襄王のころより、広く在野に賢士を求めた。
時代に前後はあるが、名を挙げるとその時代には、商鞅、白起、范雎、李斯、蔡沢、尉繚子などなどが挙げられる。

商鞅はもともと衛の皇族の流れを汲む。
重農政策や、連座制、愚民政策を採って秦を強大化した。
当時は兵=民という概念は切り離せないものだっから重農政策は当然であったかもしれないが。

白起は秦でいう国民的英雄の元帥で、范雎(応侯)、蔡沢は宰相、李斯は荀况の流れを汲む法家、
尉繚子は兵法家とでも言っておきましょう。




「どんな盾も突き抜く矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた男が、客に「その矛でその盾を突いたらどうなる」と問われ答えられなかった。

という話が、この矛盾という言葉の語源としては現在広く知れ渡っている。
しかし、韓非子はこの言葉を以ってして何を伝えたかったのか。
時の秦王は秦王・政である、つまるところ秦の始皇帝だ。
韓非子は時の王に「王と法の矛盾」について説いた。


王とは何人も従えようと欲し、
同様に法とは遍く人が従わなければその意味を成さない。
法と王は背反の関係にあるというわけだ。(『韓非子』より)


次いで法の下での王の位置付けというのを説いた。
つまり、王ですら法に従わなければならく、王は法を執行するための標識でしかない、という理論である。

始皇帝は理論では納得したものの、結局それを体制に組み込むことはしなかった。
ゆえに、韓非子は最期には服毒自殺しなければならないことになってしまう。李斯の讒言も大いに含まれているのだが。


しかし春秋戦国時代といえば、時代の過渡期である。
戦国時代に入ると、子産が成文法を公開したように、法の公開とは当たり前のことになっていた。

徳治主義から法治主義、つまるところ中央集権国家が形成される過渡期であるこの時代に王の位置づけというものは非常に曖昧であった。
それを見事に説いたのが韓非子でした。



徳治政治というのはつまるところ、古き善き時代の政治ということだ。
君主は徳を積むことによって君主たる資格を得る、とでも表現しようか。
これは後付けされた美談であるがこういう話がある。 周王朝を開闢したとされる聖王・文王の業績を讃美する逸話だ。
「昔、周の文王は民が罪を犯すと、刑吏にその罪が軽くならないか」と3度にわたって尋ねたという。
きっとこれが徳治政治に於いての君主の模範なのであろう。
この話は子産が時の鄭公・簡公に徳治政治がいかなるものかと問われたときに例えで出された事柄だ。

子産は、司校・子国の子で八穆の流れを汲む。鄭で宰相を務め、その在位35年にしてついに斬首1人、無期懲役2人という異例の治安のよさを誇った。


そんな子産の美談を一つ知っている。
鄭の国内にとある大きな河があった。
子産が駟車(4頭立ての馬車)でそこを通りかかると、
河を渡れずに路頭に迷う民を見つけた。
そこで子産は対岸までその民を陪乗させてあげた。


という。

しかしかの孔丘はこういう。
「為政者たるものがそのような小恵を施してはならない。 為政者たる者、河に橋を掛け大徳を施さなければならない。 」
と。

孔子が周礼に異様な固執を見せる人というのは明らかだが、これは些か詭弁のようにしか聞こえない。


しかし、そうであっても当時自分の信念に従って歴史を枉げるというのはなかなか出来ることではない。
例えば「人生不可解」と思うことはあって、それに殉じて自殺することはできないからだ。
いやしかし、一人だけ知っている。
当時20歳だった藤村操は「人生不可解」と称して華厳の滝に投身自殺してしまった。
彼は東京大学東洋史研究者の那珂通世の甥であったとかなんだとか。




ところでほかにも「春秋」を読み進めていくと孔子はこう言っている

「春秋にもっとも賢なるものは鮑叔牙と子皮である」と。

弟子の子貢が尋ねた。
「管仲父と国僑(子産のこと)ではないのですか?」と。

すると孔子はこういった

「賢を薦めるものが真の賢なり」と。
たしかに子産の在位35年のなかで、急進的な財政改革は貴族や有力地主に非常に多くの反発を招いていた。
そのような訴訟、讒言に一切見向きもせずに国政を委ねた子皮は確かに「賢」なるものであろう。



子産についてこんな話もある。
子産は35年の在位を経て病を得、死期が近いと悟ると病床に後継者の子游(吉)を呼んでこういった。

「唯だ有徳者のみ、能く寛を持って民を服す。其の次は猛に如く
は莫(な)し。夫(そ)れ火は烈なり。民望みて之を畏る。故に焉(これ)に死する者鮮(すく)なし」


政治のあり方について子産は火と水を例えに出しました。
つまりはこういうことだ。

「至上の政治とは水の如く寛容であることである。次善の策とは火の如く猛しいことである。水は脆弱ゆえに民は狎れて近寄り、ときに多くの水死者を出す。同様に火は烈しいので民は眺めてそれを畏れる、ゆえに焼死者はすくないのだ。」

と遺した。

後継者の子游は子産を尊敬していたがゆえに、その寛容な政治を受け継ごうとした。
しかし、うまくいかず 符沢というところに盗賊が跋扈して治安を脅かした。
仕方なく子游は兵を召して盗賊を皆殺しにして、以後は火の如く烈しい政治を敷いたのだと。