①電撃戦
であることです。
曹操に仕えた郭嘉(奉孝)がこういいます「兵は神速を尊ぶ」
そうまさにこれです。
今日浅井を攻めてたと思えば、比叡山を焼き打ち、
あす、朝倉を攻めるかと思えば、六角を駆う。

桶狭間の戦いも然り、金ヶ崎の退き口も然り、
常套戦法を打ち破る考え方です。

その電撃戦法に伴って信長が行ったのは街道の拡張です。
普通戦国大名とは外敵から侵入されないために、河には橋を架けず、
山野河海は切り拓かず、街道を整備することを畏れました。

しかし信長はそのま逆をやってのけたのです。
諸大名は馬鹿なことをと嘲笑いますが、数年後にはその諸大名は見る影もなく滅亡していきました。


さて、次にあげるべきは
②鉄砲の集団使用

これでしょう、
鉄砲の集団使用といえば長篠の戦が一般常識です。
そこらへんの猫でも知っています。
1000丁とも3000丁とも言われる火縄銃を、馬防柵を盾にして3段構えにして撃ち続ける、
とこれが現在伝えられる長篠の戦の外貌です。
まあ異説は夥しく存在ましますが、何がすごいかというと

鉄砲隊という概念を持ち込んだのは信長が初めてということです。
つまるところ、戦国大名たちがどのように鉄砲を運用していたかというと弓隊に交えて鉄砲兵を組み込んで緒戦で使用し、混戦になると引かせるというのが常套手段でした。
しかし、信長は集団使用の際の大音声に着眼し、効果的な攻撃だけでなく恫喝の役割も果たすということに気づきました。

なるほど西洋で鉄砲の集団使用が実施されるのはなんと長篠の戦のおよそ150年後です。天才だ信長は。


さて次にあげるべきは
③鉄甲船の発案です。

第二次木津川の戦いというのがあり、九鬼水軍が600隻以上からなる毛利家の村上水軍を破ったのは有名です。
10年と続いている石山合戦に苦慮した信長は大阪湾を完全部封鎖するべく、本願寺に兵糧を運びこむ毛利水軍を何とかするべく、九鬼嘉隆にこの船の創作を命じました。
船の周囲を全て鉄で張り巡らしたこの船は、鉄砲は当然のことながら、焙烙火矢すら通さない無敵の船でした。

たった5隻で600隻からなる毛利水軍を打ち破るとは前代未聞、やはり信長は天才的ですね。
ちなみに西洋で鉄甲船が発明されたのは200年以上あとのこととなります。

さて 
④兵農の完璧な分離

があげられるでしょう。
豊臣秀吉が1588年に刀狩令を発布したのは生まれた時から知っています。
これによって兵農が分離されたといいますが、
信長は城下町集住を強いることによって、地縁集団を郷土から切り離し、戦闘専門の集団を形成しました。
つまり農繁期を気にせずに年中出兵ができるということです。

ほかには3間半の長槍を用いたこと、などはわざわざ挙げる必要がありませんね。


さてでは行政面ではどうでしょうか。

まず見るべきは
①楽市楽座です。
日本史に詳しい方はご存知と思われますが、
日本で最初に楽市例を発布したのは南近江の守護大名・六角定頼です。
しかし、信長ほど徹底したものではありませんでした。

1567年、美濃加納で、そして1577年には近江安土で
楽市令は発布されました。

これに加えて②関所の完全撤廃です。

これは諸大名から見れば街道の拡張同様の愚行ですが、
①、②を掛け合わせると物、人が次々に織田領へ流れ込んでくるというシステムです。
そうすると大量の兵団を長期に出兵させるための戦費を賄えるようになるという算段です。

織田信長の徹底した重商政策は尾張統一戦を目指す際に、いち早く津島に目を付けたことや、
足利義昭を奉じて上洛した際に堺を直轄領として拝受したところからも窺えます。





次に外交手腕を挙げてみましょう。
①強大な勢力に対して

織田信長が一番恐れていたのは武田信玄です。
これはゆるぎない事実です。
なぜなら、1560年、尾張を統一してまずはじめに行ったのが、娘を武田信玄の嫡孫、信勝の嫁として武田家に差し出したことです。
その娘が病死すると今度は信長の4男・勝長を人質として差し出しています。
織田勝長(は本能寺の変の際に二条城で戦死)の「勝」の字は当然武田信勝から1字賜ってることが窺えます。

このように強大な勢力にはしっぽを振りつつ、同時に

②弱小勢力の懐柔

を行います。
自分の庶子を養子としてその家を継がせ、武力を用いずに傘下に収めるという采配です。
具体例を挙げてみますと、
北伊勢の神戸家、北畠家、工藤長野家がそうであります。

神戸家には3男・信孝、北畠家には二男・信雄を、工藤長野家には弟・信包を継がせて見事に家を乗っ取っております。

見事な外交手腕です。
ほれぼれします本当に。


では最後に信長の最も魅力的な点をご紹介しましょう。

①仕える人材はどのような出自でも登用する


ことがまず挙げられるでしょう。
それは信長四天王の筆頭とされる柴田勝家などがまずそうであります。
柴田勝家は信長の弟・信行を奉じて2度反乱を起こしています。
しかしそれを許し起用しています。
羽柴秀吉などはみなさん御存じのとおりです。

また滝川一益は伊賀者の頭領だったといわれており、
細川藤孝、明智光秀は流浪将軍の側人、
松永久秀は2回の謀反を許しています。

この度量は並大抵のものではありませんね。
さすが天才です。

次に
②既成概念に捉われない思考力

これは比叡山焼き討ちなどがそうでありましょう。
比叡山延暦寺は最澄が天台宗を以て総本山としてから
いわば俗世とは独立不羈の地であり、700年この方、兵馬に侵されたことはありませんでした。
しかし聖山謳われた比叡山も700年たつと腐敗限りなく、
禁忌とされている、狩猟はし放題、女は連れ込み放題、僧兵を抱え込んで近隣に異名を轟かせしめるといった感じでした。

さらには浅井朝倉と連合して反信長の兵を挙げたので
山ごと悉く焼き払ってしまいました。
この時死んだ比叡山側の人は、高僧、老若男女含め3000人と言われております。

うん素晴らしい決断力だ。


③足利将軍を京から追放した

のも挙げられるでしょう。
いや、足利義昭が槙島城でこそこそ陰謀を進めてるからいけないんですがね。