日本では、大和朝廷が成立してのち、多くの渡来人を迎え入れた。

それは彼らを技術者として重宝するからであり同時に同盟国だからであるが、主に具体例を挙げてみるとまずはじめに弓月君、阿知使主<あちのおみ>、王仁<わに>の3人が挙げられる。

彼らは技術者でありたとえば弓月君は機織りを日本に伝えたため後に秦氏を名乗る一族の祖とされた。
また王仁は論語と千字文を伝えたとされている。
彼らは朝鮮で力が強大となった高句麗・新羅連合軍の圧迫を受けた祖国・百済から逃れてきたのである。<百済滅亡は660年>



技術だけではない、思想も同様である。
513年には段揚爾を中心とする五経博士が日本の継体天皇(507年即位)に献上され、四書五経を中心とする中国の経学を伝えた。

また522年には渡来人、司馬達等が「私的に仏教を崇拝していた」と史書『扶桑略記』には載っている。

『日本書紀』によると538年、もしくは552年となっているので、これが事実であれば、日本に最初に仏教を持ち込んだ人物は司馬達等ということになる。

最後に具体例として挙げるのは、義慈王の子・扶余豊璋である。

かれは百済の王族であり倭に人質として送られていたが、高句麗に滅ぼされた百済の新王として鬼室福信ら、百済の遺将らに擁立された。

そのため余豊璋の存在そのものが白村江(はくすきのえ)の戦いにつながると言っても過言ではないのであるが、一説には倭は朝鮮半島に先進技術と鉄鉱資源を求めたともいわれている。
 

このように多くの渡来人が日本に帰化し、日本史上で活躍している。自分は幼いころから日本史の中でも特に中世を専門に勉強してきた。そのため、今回は中世に於ける彼らの子孫の軌跡をたどってみたい。


まずはその具体例として大内氏が挙げられよう。大内氏は倭に人質として人質として送られてきた余豊璋の子孫、さらに遡ると、百済聖明王の子孫と伝えられている。<大内氏が百済聖明王の子孫を称するのは14世紀から>

その百済系渡来人の子孫が周防国の大内村に漂着したことから大内氏を名乗ることになったという。彼らは14世紀には在庁官人であったが、戦国時代には守護大名として頭角を現し、最盛期には中国地方6カ国に及ぶ大勢力を保持するまでに至った。

また1530年、寧波の乱以降25年間、実質上対外貿易を独占しその利益を大内氏が占めた。陶晴賢の乱によって、大内義隆が弑逆されて対外貿易は途絶することになるが、渡来人の子孫が中国や朝鮮の貿易を一手に担うという話はなかなか面白い話である。
 

次に具体例として挙げたいのは四国の長宗我部氏である。長宗我部氏は秦河勝を祖とすると言われている。

長宗我部氏は、戦国初期に信濃から移ってきたと言われており、土佐国長岡郡曾加部というところに定着した。

そのため、当初は「曾加部氏」を称したが、すぐ隣、香美郡にも曾加部氏がいたため、それぞれの郡から一文字を苗字に加えて、

長岡郡の曾加部氏は「長宗我部」、
香美郡の曾加部氏は「香宗我部」を名乗るにいたったのである。


その長宗我部氏であるが、長宗我部国親のころに、土佐七雄に数えられるまでに勢力を拡大し、領土を争った。

ちなみに長宗我部元親は弟・親泰を香宗我部氏に養子として出し、勢力の安定を図った。
このような例は戦国時代ごく一般の事例で、
同様な具体例を近くに求めてみると

元親の子・親忠は津野氏、また次男・親和を香川氏に出している。

織田信長の子が北畠具雄<織田信雄>、神戸信孝、羽柴秀勝というのも同様、

武田信玄の子が一条信竜、弟が河窪信実というもの同様である。




話を戻そう、長宗我部国親の子・長宗我部元親は土佐の統一だけでなく、四国一円を切り従えほぼ統一するまでに至った(伊予の河野氏だけは服従しなかった。)。

しかし、その子・長宗我部盛親は関ヶ原の戦いで西軍に加担したため、土佐にあった領地は改易となり、盛親自身は大阪の陣に豊臣方として大阪城に入城し夏の陣で戦死してしまう。そのため長宗我部家は途絶えてしまうことになってしまう。