「封国は偏遠にして藩を外に作す。昔から祖彌、躬ら甲冑を環き、山川を跋渉し、寧処に遑あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。王道融泰(ゆうたい)にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆らず。」(『宋書』倭国伝より抜粋)


衆夷、や毛人はつまるところ中国の中華思想に基づいて決定された蔑称である。
毛人とはすなはち熊襲のことであり、山人族であるらしい。
山人族はほかに平蜘蛛、隼人などといった民族が著名である。
それに対して倭人は海人族の流れを汲む人々らしい。

海人族は顔から体中まで入れ墨をする。
その文様で氏族の出自、大小で身分の尊卑が識別される
と『漢書「地理志」』に載っている。

中国の南域に楚、呉、越という地方がある。
呉は三国志で有名なので皆様ご存知かと思いますが、
呉は長江南流域の地域で、越は今のベトナムのことです。

かれらも同様に体中に入れ墨をしていました。
『漢書「地理志」』によると特に顔に入れ墨をすることを
黥面といいます。

楚や呉越は他の春秋諸国が黄河文明で発展を遂げたのとは異なり
長江文明によって繁栄しました。
よって黄河文明が畑作中心なのに対し、長江文明は稲作が中心でした。
北方よりも温潤な気候が特徴で、夏場彼らは基本的に半裸状態でした。

なので服ではなく体に直接装飾を施そうという概念に基づき、入れ墨をするに至りました。
日本の稲作は河姆渡遺跡から伝来したのを根拠に、また入れ墨の文化の共通点から、
倭に最初に渡ってきた民族は楚や呉越の人々<ミャオ族>だと説く人がいます。一理あります。

2世紀ごろ男子<おのこ>はみんな入れ墨をしていたといいます。
しかし邪馬台国の東遷に伴いその風習は無くなりました。
邪馬台国は東遷しますが、当然残った小政権も多々ありました。

その中で、目の周辺に入れ墨をする氏族が九州に残りました。
彼らは敵を威嚇するために目の周辺に入れ墨を入れるのであるが、
そのため彼らは「クメ」と呼ばれた。

現在久米姓が九州にとても多いのはそれに起因するのではないか。