みなさんの存じない関ヶ原の戦いをご紹介しましょう。

1600年、石田三成の率いる西軍、徳川家康率いる東軍が激突したのはご存じでしょう。

この1600年の関ヶ原の戦いがなぜ斯くも重要であるか

それは織豊政権時代から江戸時代へち移行する時代の転換期であったから、
でしょうか。

この関ヶ原に伴う、多くの大名の国替え、移封、転封、減封、改易、などなど日本は大激動しました。

まあ、それはさておき、視点を移してみましょう。
時代は南北朝時代、高名な太平記の時代です。

時は1338年、ここ同じ関が原(当時は青野ヶ原といった)で南朝北朝10万を超す両軍が激突しました。

現在の青野ヶ原とは大垣市を含むとされているのでほぼ同じ地域を指しているとみてよいでしょう。


時代背景から追ってみてみましょう。
1338年とはどういう年であったか。

兵庫湊川では北朝側・足利尊氏率いる20万の大軍に楠木正成が手勢800を率いて、
散々打ち破り、駆け抜け、壮絶な戦死を遂げたのはこの時です。

(足利尊氏はその楠木正成の武功を愛でて首級を丁重に弔い、河内に住む遺族に送り届けたそうです。)

京では後醍醐天皇が吉野に逃れ、同様、尊良親王を奉じで新田義貞と脇屋義助が越前へ逃れました。
しかし、再挙の見込みは無に等しく、そのまま彼らは敗亡してしまいます。

懐良親王が九州へ逃れるのもこの時です。


さてでは陸奥へ目を移してみましょう。
「建武の新政」といわれる時期に陸奥鎮守府として陸奥入りした部将に北畠顕家という将軍が居ました。

彼はこの南朝に不利な状況下、陸奥の兵を糾合し南下、
瞬く間に鎌倉を陥落せしめ、守将・斯波家長を打ち取りました。


(斯波家長は足利家の支族。北畠顕家の対抗馬として、陸奥将軍府に任命し、陸奥に赴いた。将才に長けていたといわれていたが、その彼でさえ北畠顕家を止めることはできなかった。)

同様、鎌倉にいた千寿王(のちの2代将軍・足利義詮)はほうぼうの体で安房に逃げるありさまだ。

鎌倉を陥落させたら、関東で挙兵した新田義貞の子・義興を糾合し、
三河で北朝側・吉良満義を破り、ついに青野ヶ原に到達した。


北朝側
土岐頼遠(美濃守護)
高師冬
高師兼
吉良満義
小笠原貞宗(信濃国人)
今川範国

南朝側
北畠顕家
北畠顕信(弟)
義良親王(後醍醐天皇の子)
新田義興
北条時行(最後の執権・北条高時の子、中先代の乱を起こす)


などである。
当時としてはそうそうたるメンツであることがお分かりになるであろうか。

北朝側としては敗戦続きであり、ここで敗れると首都・京は目前となってしまうので
墨俣川(木下藤吉郎の一夜城で有名)に背水の陣を敷いて立ち向かった。

しかし、北畠勢の勢いを止めるべくもなく辛くも敗走してしまった。


この戦いののち、当然北畠勢は京を目指すと思われたが、
突然にして近江路から伊勢路に進路を変更し、(つまり京へ向かうのをやめ)
そのために和泉で高師直の大軍に敗れ北畠顕家は敗死してしまった。

歴史家の検証によると、この突如の進路変更は
1:強行軍による将兵の疲労甚だしく、このまま京へ侵入して北朝勢の主力と決戦するに及ばなかった

2:佐々木高氏(道誉、ばさら大名で有名)が3万に及ぶ悪党を集結させていた

3:先に吉野へ合流しようとしたが、軍議が一変して京都を急襲しようとし、逆に敗れてしまった



などが挙げられる。
ちなみに北畠勢を京に入れなかった功績として土岐頼遠の武勇は全国に知れ渡ったという。
まったく意味不明な話である。

ちなみに北畠顕家、享年21歳。