今回は天皇並立についてお話ししようかと思います。

戦前、というか水戸学に於いてなぜ足利尊氏が逆賊と言われているかというと
南北朝正閏論で南朝を正統とするにも関わらず持明院統の天皇(光厳、光明など)を擁立したためであった。

まあ、大覚寺統(南朝)を正統としておきながら、明治天皇は持明院統なので自称天皇のような熊沢天皇が昭和期にでてきてしまうことになるのであるが。




今日、足利尊氏がなぜ批判され続けるかというと、以上のような右寄りな論を展開する人はさすがにいないであろうが、
それに伴う動乱の時代を半世紀に及んで招いたからであろう。

後醍醐天皇を吉野に追う1338年から、足利義満が南北朝を統一するまで1392年に至るまでおよそ半世紀、
全国の武将たちは戦いを繰り返す。
それはなぜかというとこの皇国に2つの正義ができてしまったからだ。

たとえば北朝側の武将が恩賞に不満を抱いて、南朝側について正義をかざして戦う、などといったことが平然と行われていたのだ。

それを考えると3代将軍・足利義満が

美濃の乱で土岐康行を討伐し、11カ国もの守護を兼ねる山名氏清、山名満幸を討ち、応永の乱で大内義弘を討伐し

このように幕権を強化し得たのも

この南北朝の合一ということが大きいのではないであろうか。




さて話がそれたが、自分が知る限りこの皇国に朝廷が並立したという事実は3度ある。

1つめは以上に述べた南北朝の動乱期だ。


2つ目は江戸末期、幕末時代に見ることができる。


時は戊辰戦争、官軍は負ける負ける。
徳川慶喜は意図的に負けたかどうか、それは未だ議論の余地がある、しかし今回はそれに触れないでおく。

瞬く間に西国は制圧され主城である江戸城まで無血開城するに至ってしまった。
この際に開城の交渉を担ったのが勝海舟であり、山岡鉄舟であった。

(高橋泥舟と3人並び称されて、「幕末の三舟」といわれた。)


しかし、勝海舟のような恭順派だけでなく、当然徹底抗戦派という人々もいた。

例えば天野八郎である。
彼は彰義隊という隊を江戸にて結成した。
最初は30名足らずの同心組であったのだが、瞬く間にその人数は膨れ上がり、たとえば新徴隊(清川八郎が結成した旧浪士組)や新撰組残党(永岡新八)などが加わって3000人を超すにまで及んだ。

彼らは江戸の治安維持を担当したのだが、江戸城入りした薩摩兵たちといざこざが絶えず、治安維持を担当した彼らが治安を乱すという有様になってしまった。


そこで新政府は彼らの討伐を決めた。
これが上野戦争だ。

この際に擁立されたのが輪王寺宮親王という。
彼は徳川幕府時代、朝廷が徳川幕府に差し出したいわば人質であった。
上野寛永寺に住んでいたがそのため、思考としては当然佐幕的であった。

彰義隊はご存知の通り大村益次郎、西郷隆盛らに1日で鎮圧されてしまったのだが。

輪王寺宮親王は寛永寺陥落後、東北へ逃れた。
そして奥羽越列藩同盟樹立に伴い、「東武天皇」として擁立され
同時に東北政府樹立を宣言した。
主要幹部は以下のとおりである。


東 武 皇 帝  :輪王寺宮親王
関白太政大臣 :九条道孝
執 柄     :醍醐忠敬・沢為量
権征夷大将軍 :伊達慶邦
副将軍兼総裁 :松平容保
越後口奸賊防衛:上杉斉憲
出羽探題兼守護:佐竹義尭
領軍事総裁   :竹中重固
海軍総裁    :榎本武揚


「一時的ではあるが、皇国に朝廷が並立することは検証に値する、事実である。」とある歴史家は述べている。

余談ではあるが、徳川幕府が樹立して間もないころ、徳川家康は伊達政宗や上杉景勝らの反乱を最も警戒した。
時代が下って幕末、この伊達家や上杉家が最後まで徳川家のために忠誠を尽くして戦ったとは皮肉な話である。

さて、ご存知の通り、奥羽越列藩同盟は会津戦争を経て崩壊した。
輪王寺宮親王はその後、明治新政府下で北白川能久親王と名を改めて
陸軍中将にまで昇進した。

「都合の悪い歴史は抹消してしまう」というその「都合の悪い歴史」の片鱗を見た思いである。



さて3つめに王朝並立の例として挙げたいのは古代大和朝廷の時代である。

万世一系を是とする戦前の大日本帝国ではこういった王朝の並立説や交代説を説くのは禁忌であった。

たとえば戦時中、津田左右吉が「王朝並立説」を唱えたことによって弾圧されたことなどあった。

戦後こういった古代史の調査、検証が勃興しさまざまな説が浮上した。
「河内王朝説」「騎馬民族説」「王朝並立説」「三王朝交代説」などである。
自分の知る限りでこれであるから、当時としてはもっとたくさんいろんな説が出たのではないであろうか。

今回はこの中で水野祐氏の「三王朝交代説」を取り上げてみる。

三王朝というのは流れ的に
三輪→河内→近江
の3王朝である。

王朝交代説を提起するにあたってその古墳の存在する場所も当然であるのであるが、「三王朝交代説」では王朝氏族の名前に注目している。


三輪王朝では天皇の名前には必ず「イリ」が付いていた。
例えば美輪王朝の始祖とされる、崇神天皇である。
「崇神」とは漢風諡号であり、和風諡号には調べるところ「ミマキイリヒコイニエ」とある。
読めない…。

他に垂仁天皇は和風諡号「イクメイリヒコイサチ」とあるのがわかる。


では河内王朝はどうであろうか。
河内王朝には「ワケ」とあるのに注目してもらいたい。

例えば
反正天皇は「多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)」
履中天皇は「大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)」とある。
他に具体例が見つからなかったのでどなたか興味あるかたは調べてみていただきたい。

そして、その河内王朝の皇位を簒奪したのが近江王朝、継体天皇であるという。

継体天皇即位は507年、確かに、外戚である男大迹を近江(もしくは越)から迎えたとされている。
迎えたのは物部麁鹿火、大伴金村などであり、この継体擁立説はまんざらでもなさそうだ。



以上の3つを皇室並立の具体例として挙げたい。